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彼が歌音の側近になってから、さほど時間が経ったわけでもないのに、歌音は斜め後ろを歩く相手が逸見からエリスに変わった事実に、慣れ始めてさえいた。
逸見が消えたことに寂しさや切なさを感じるどころか、出会って間もないエリスの存在を抵抗なく受け入れ、親しみを持って接してさえいる。
自分は自分で思っていたよりずっと、逸見から離れたがっていたのだろうか。
彼の眼鏡越しの目が消えたことに、これまでよりずっと深い呼吸が、出来ているようですらあった。
「……あの」
「ん?どうかした?」
自室に戻り、学院から持ち帰った書類をデスクに広げていると、珍しくエリスから話しかけて来た。
穂積に見つかれば、休暇中くらいは大人しく休め!と没収され兼ねない何枚もの書類は、帰省する前にこっそりと隠しておいたものだ。
紙面から持ち上げた視線は、どこか戸惑ったような男の、褐色の瞳とぶつかった。
「その……一つ伺ってもよろしいでしょうか?」
「僕に答えられることなら」
本当に珍しいことだと内心で驚きながら、重厚な造りのデスクへ、紙を置いた。
エリスは綺麗な姿勢で直立したまま、僅かの間言い淀んだあと、思い切った風に自分の主と目を合わせた。
「私は、歌音様の側近に過ぎません。貴方の盾となり、必要とあらば剣となる役割の者です。時が来れば、切り捨てて頂く存在です。そのような私に、なぜ歌音様は……その、お気を回して下さるのですか」
その質問に、歌音は既知感を覚えた。
いつか、どこかで耳にした気がする。
でも、それがいつか思い出せない。
思い出さない。
思い出してはならない。
束の間、少年の全機能が停止した。
正面の側近は、歌音の返事を辛抱強く待っている。
「……迷惑だったかな」
「そんなっ……いえ、とんでもありません。ただ……」
「ただ?」
「自分の役目を、十分にこなしている実感が湧かないのです」
「君の役目?」
何故か語られる内容に検討がつきながらも、歌音は促すように反復した。
エリスは一見無表情に見える顔で、首肯した。
「主の影となり、常にお傍にお仕えするのが、私に課せられた「側近」の仕事です。何においても主をお守りし、手足として主の意に従う。不必要な自我などを持たず、主の道具として命を捧げる存在。それが、「側近」たるものの姿だと、逸見様に教えられました」
道具。
一人の人間に対して、使うべき単語ではないと考えるのに、エリスは平然とした様子で自らをそう称した。
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