閑散とした空間には、自分以外に誰もいないから、抵抗はなかった。

逸見は熟れ過ぎて無残な想いを、唇に乗せた。

「歌音、歌音、歌音……」

敬称はない。

学院にいる間に、すっかり慣れた呼び方は、胸中で彼を呼ぶときのもの。

狂ったように、焦がれたように、性急に紡げば明確な痛覚を伴って、甘美な衝動が背筋を走った。

天井を仰ぎ、露になった首筋へと手を這わせる。

べっとりと赤いものが、肌を汚す眺めは自堕落で扇情的だ。

吐き出す呼気が、灼熱の温度を漂わせる。

もどかしい気持ちで、フレームレスの眼鏡をむしり取った。カツン、と高い音を立てて跳んで行く。

途端、ぼやけた世界に浮かぶ人。

好きだとか、愛しているとか、そんな生易しいものではない。

青臭いキレイ事の冠は、逸見の抱く感情にはとてもじゃないがつけられない。

ただ欲しい。

存在そのものが欲しい。

歌音という神聖で清らかなものを、己の手の内側へ引きずり込みたくて仕方ない。

時折、彼が潔白な高みに在ることに、憎悪すらおぼえた。

「歌音……なんでっ……!」

自分の手を離してしまったのか。

触れることは出来なくても、望みを言うことさえ出来なくても、傍にいたかったのに。

傍にいさせて、欲しかったのに。

ただ一人の主から、突きつけられた「さようなら」。

従順な側近は、ただ絶望に浸るしか道はない。




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