◆
閑散とした空間には、自分以外に誰もいないから、抵抗はなかった。
逸見は熟れ過ぎて無残な想いを、唇に乗せた。
「歌音、歌音、歌音……」
敬称はない。
学院にいる間に、すっかり慣れた呼び方は、胸中で彼を呼ぶときのもの。
狂ったように、焦がれたように、性急に紡げば明確な痛覚を伴って、甘美な衝動が背筋を走った。
天井を仰ぎ、露になった首筋へと手を這わせる。
べっとりと赤いものが、肌を汚す眺めは自堕落で扇情的だ。
吐き出す呼気が、灼熱の温度を漂わせる。
もどかしい気持ちで、フレームレスの眼鏡をむしり取った。カツン、と高い音を立てて跳んで行く。
途端、ぼやけた世界に浮かぶ人。
好きだとか、愛しているとか、そんな生易しいものではない。
青臭いキレイ事の冠は、逸見の抱く感情にはとてもじゃないがつけられない。
ただ欲しい。
存在そのものが欲しい。
歌音という神聖で清らかなものを、己の手の内側へ引きずり込みたくて仕方ない。
時折、彼が潔白な高みに在ることに、憎悪すらおぼえた。
「歌音……なんでっ……!」
自分の手を離してしまったのか。
触れることは出来なくても、望みを言うことさえ出来なくても、傍にいたかったのに。
傍にいさせて、欲しかったのに。
ただ一人の主から、突きつけられた「さようなら」。
従順な側近は、ただ絶望に浸るしか道はない。
- 31 -
[*←] | [→#]
[back][bkm]