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「くそっ!」
打ち付けた拳に、壁が震えた。
衝撃を受けた骨が、カッと熱くなる。
指と指の隙間から、ぽたりと赤い雫が滴って、曇天色をしたコンクリートの床に、鮮やかな花を散らした。
男にとって手の傷など、取るに足らない。
痛むのは。
抉られるほどの痛みを訴えるのは、体の内側だ。
茨を血の管に通したように、足の先から指の端までが焼け付くよう。
刻一刻と時計の針が進むたび、灼熱の痛みは悪化して行く。
どうして。
喉の奥から無理やり捻り出した呟きは、大気を揺らすこともない。
壁に背を押し付けると、男はそのまま伝うように床へと崩れた。
「歌音……」
吐息混じりに吐き出す名は、先刻まで確かに逸見の守るべき相手のものだった。
何においても優先すべき、尊い人の。
光の羽を携える、穢れない人の。
逸見の命を捧げた、相手の名前だったのに。
――君を、僕の側近から外す
感情を排した愛らしい面で、最期通牒を告げた。
どうして。
なぜ。
浮かび上がるのは疑問符ばかりで、ろくな思考も出来ない有様。
無様な姿を歌音に晒すことだけは回避しようと、あの場をすぐに後にして、こうして一人射撃訓練場へと閉じこもった。
逃げて来たのだ。
己の情けなさに、自嘲しかけて失敗する。
口角が引きつるだけで、弧を描くまでは行かない。
あぁ、いつものように、そつのない態度で「わかりました」と頷けばよかったのに。
傍を離れても貴方を守ると、言えばよかったのに。
無理だ。
そんな建前だけの虚勢。
なけなしのプライドからの見栄。
音にする余裕はなかった。
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