「どういうつもりで現れたのか知らないが、そこの「人形」を連れてイタリアへ帰れ」
「……逸見」

大丈夫、やや早口になってしまったけれど、意識に留まるほど不自然ではなかった。

斬られたことなどなかったように、振舞えている。

小さく呟かれた己の名前に応じる前に、逸見は何度も自分へ言い聞かせた。

でなければ、とても声の主を振り返ることなど出来ない。

そこで待つ天使の面に刻まれた感情を、恐ろしくて見られない。

一呼吸の間を置いてから、彼は自分の主人である少年を省みた。

「逸見」

繰り返す歌音は、何の感情も浮かべてはいなかった。

ひどく真面目な顔で、逸見を真っ直ぐ見つめている。

平坦で静かな呼びかけに、覚えた小さな違和感の正体を知ったのは、次に歌音が言を紡いだときだ。

「君を、僕の側近から外す」
「え?」

え?

目の前の映像が、動きを止めた。

耳がおかしくなったのか。

ついに気が狂ったのか。

言われた内容を、呑み込めない。

理解できない。

処理が追いつかない。

愚鈍な速度にまでに落ち込んだ脳回路は、きっと防御本能が働いたに違いない。

だってそうだ。

受け入れてしまえば、理解してしまえば。

凍りついた男に向かって、歌音はもう一度。

特別なことなど何もないと言うような、平然とした表情で、言った。

「僕の片腕から外れてもらう。そう、言ったんだよ」
「待って、下さい……。どういうことですか、なにが……俺の何が至らなかったのですかっ。言って下さい、貴方のためなら俺は……」

口が勝手に動いている。

頭も心も、まだ歌音の言った言葉の意味を、受け止めてはいないのに、体だけが暴走を始めた。

何としてでも歌音の傍にいようとする、見苦しい懇願。

あぁ、無様。

幽鬼に似た足取りで、一歩、一歩と尊い存在へ近付いて行く。

手を伸ばせば触れられる距離まで、到達するのは容易かった。

けれど、指の先が彼の人の肌を掠めることさえ、出来ない。

無意識に持ち上げた手は、歌音に届く直前で、見えない壁に阻まれたように進行を止めたのだった。

歌音の碧眼は、脆弱な男の瞳を視界に入れたまま、少しもぶれずにいる。

その強さが、彼の言葉が嘘ではないことを、証明しているようで。

「逸見……君にとって、僕は守るだけの存在なのかな」

柔らかく微笑んだ歌音には、致命傷を負った逸見を正気に返すだけの、悲哀の香りが漂っていた。




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