0.遭遇




重厚な木製扉を押し開くと、ひんやりとした空気と静寂に満たされたエントランスホールがある。右手の司書カウンターは常に無人で、その奥に立ち並ぶ無数の書架の合間にも、人の気配を感じることはない。

一階中央から伸びる大階段は、吹き抜けとなった二階の回廊へ続いている。いくつかの書架と申し訳程度の閲覧席が回廊沿いに並んでおり、等間隔に設けられた大窓から差し込む、初夏の日差しに照らされている。

光りの中を進み大階段のちょうど真逆の位置にあるのは、甘い色合いのチェリー材で出来た、布張りの寝椅子だ。大の男でも身を横たえるに十分な大きさのそれは、熟練の職人が仕上げた一級品だ。

だが、値段にしてゼロが六つはつく高級品が置かれた場所は、あまりに不自然だ。この場――碌鳴学院高等学校図書館――には、相応しくない。読書や自主学習のための施設に用意された寝椅子は、明らかに浮いている。

その不自然極まりない席に腰かけ足を投げ出しながら、室戸 蘭は大きく欠伸をした。

「あー……どっかにいいオトコいないかなぁ」

濡れたように輝く黒々とした双眸を眇め、赤みの強い薄い唇で本音を零す。肩まで伸びた艶やかな黒髪を乱暴に掻き上げながら、碌鳴学院の夏服に包まれたのびやかな肢体を寝椅子へと沈める様は、まるで春画のように自堕落で怠惰な色気に満ちている。

事実、蘭の頭を占めるのは、平日の昼間にはそぐわない不健全極まりない悩みだ。

「今年の一年に目ぼしいのはいなかったし、遊んでくれそうな三年はだいたい回っちゃったしなぁ。あー、つまんねぇー……」
「だから、いつでも俺が相手するって言ってるでしょう?」

欲求不満剥き出しで愚痴る蘭に応じたのは、耳に心地いい低音だ。蜜のようにこっくりとした甘さを孕んだ声は、老若男女問わず聞く者の腰を痺れさせる。

「蘭ならタダで遊んであげるよ。いっぱい気持ちよくしてあげる」
「常識とか倫理観が欠如してるよね、下柳さんって」
「節操が行方不明なきみには言われたくないな」

からかうように笑いながら歩いて来たのは、司書の下柳 正義だった。どちらかと言えば整った、けれど「凡庸」の範疇に留まる面には、いつ見ても温和な微笑が浮かんでいる。一見すれば、人畜無害な好青年だ。

しかし蘭は知っている。地味な眼鏡の下で笑みの形に細められている双眼が、実は鋭い三白眼であることを。人当たりのよい微笑の仮面の下には、その名に反したアンモラルな思考と言動が隠されていることを。

「こわがらないで、一度試してごらんよ。リピーターになるよ、絶対」
「さすが、百戦錬磨の玄人様は言うことが違うわ。俺は素人専門なんで、プロのお世話にはならねぇよ」
「食わず嫌いは良くないよ? 一口食べたらクセになって、ずっと味わっていたと思うかもしれない」
「……あんた、ほんと下品だよな」

蘭のげんなりとした表情が見えていないのか、下柳は「あははは」と笑いながら、回廊の窓にかかるカーテンを閉めて行く。自然光が遮られたことで、電灯の点いていない館内は一気に暗くなった。
「え、なに」
「そろそろお昼だからね。本がやけたら困る」
「あぁ……そっか」
携帯電話で時間を確認すれば、そろそろ午前中の授業が終わる時間だ。この時間帯が一番、二階に日差しが差し込みやすい。

下柳の司書らしい発言にほっと胸を撫で下ろして、蘭は最新型のスマートフォンをポケットに戻した。

「期待に応えた方がよかったかな。でも、生憎とぼくは明るい中でヤる方が興奮す――」
「期待してないし、あんたの趣味嗜好も聞いてない」

「今すぐ黙れ」と言外に訴えれば、司書の男は大袈裟に肩を竦めて「残念」と返してきた。

そのまるで「残念」とは思っていないような態度は兎も角、人を小馬鹿にした素振りは、ただでさえ鬱屈としていた蘭の神経に障った。濡れた黒眼に尖った意思を乗せて睨みつける。

「生徒へのセクハラでクビになりたくなけりゃ、さっさと地下の作業に戻ったら?」

碌鳴学院には図書資料の閲覧・収蔵施設が二か所ある。本校舎に設置された図書室と、学内最奥に建つ図書館だ。

地上二階地下三階建ての図書館は、開架書庫だけの図書室と異なり開架書庫と閉架書庫の二つが存在する。学院関係者ならば誰でも自由に出入り可能な地上階が開架書庫となっており、貴重な資料などは地下階の閉架書庫に収蔵されているのである。入口の司書カウンターが常に無人なのは、一人でこの図書館を管理している下柳が地下の作業にかかりきりのためだった。

「相変わらず素直じゃないね。ぼくが緊縛プレイ好きの変態じゃないことに感謝して欲しいよ」

本心からの拒絶を曲解するな。緊縛プレイが好きだったら、無理やり押し倒したとでも言うのか。自分のことを変態じゃないと思っているなら大間違いだ。

瞬時に湧き上がったいくつもの反論がぶつかり合い、喉元で渋滞が発生する。どれを最初に口にするか迷っているうちに、下柳はすべての窓のカーテンを引き終え大階段を下って行ってしまった。

ひらひらと振られた掌に歯噛みしながら、蘭は勢いよく寝椅子に転がった。

「あいつのサオ、いつかもぎ取ってやる」

下柳のことは決して嫌いではない。一年の頃から図書館をサボり場所として利用する欄を、なにも言わずに受け入れてくれることには感謝している。

しかしながら、事ある毎に誘いをかけて来るのは困りものだ。本気とも冗談ともつかないセクハラじみた発言に、彼の眼鏡を叩き割ってやりたくなった回数は果たしてどれほどか。

セックスだって嫌いではない。割り切った遊びの関係ならば、男女問わず大歓迎だ。下柳が指摘した通り、蘭は「節操」が欠如しているのだ。

けれど、そんな節操なしにも一つだけこだわりがあった。

「オトナとは寝ないって、何度言えば分かるんだよ」

うんざりとした口調で吐き出して、胸のむかつきを抑え込むように寝椅子の上で体を丸める。ぎゅっと目を瞑れば、暗闇に記憶が映写された。

軋むような音が鼓膜に触れたのは、次のときだ。

一階の玄関扉の開閉音だと気付き、ぎょっとして目を開ける。静かな館内に響く革靴の音色に、回廊から首を伸ばして階下を覗き込んだ。

学内の主要な施設から離れているせいで、図書館を訪れる者はほとんどいない。本を借りるにしても図書室で間に合うため、ここへ来るのは司書の下柳かサボり魔の蘭くらいだ。

図書館に入り浸るようになって初めての珍事に、蘭は来訪者が視界に入るのをじっと待った。

規則的に刻まれる足音は心地良く、次第に大きくなっていく。

最初に見えたのは、真っ新な黒髪の頭頂部。碌鳴生のトレードマークである白いブレザーに、来訪者は生徒と知る。彼は一瞬だけ迷うように足を止め、それから階段を上がって来た。背筋のまっすぐ伸びた広い背中、スラックスに包まれた長い脚、遠目にも分かる長身に胸が高鳴る。バランスとの取れた美しいスタイルだ。

やがて階段を上り切った生徒は、二階の回廊をぐるりと見回して――蘭に気が付いた。

人がいるとは思っていなかったのだろう。手摺に頬杖を突き凝視する蘭に、ぎょっと目を剥いたのが分かる。

だが、蘭には彼の戸惑う表情など見えていなかった。

短く整えられたさっぱりとした髪型。意思の強そうな太い眉と、はっきりとした双眸。驚愕で半開きになった唇はやや厚めで、白い歯が覗いている。武道でもやっていたのか、綺麗な姿勢を保つ身体は引き締まり、逞しいと言うより頑健そうだ。

性格を表わすかのようにきっちりと着込まれた制服に乱れはなく、首元を飾るネクタイが妙に禁欲的だ。

来訪者の姿を凝視しながら、蘭は口の中だけで呟いた。

「ヤバイ、どストライク」




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