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腐った水、磯、鉄錆。

いくつもの匂いが混ざって生まれた強烈な臭気に、鼻腔が刺激される。

思わず口で呼吸をしたものの、生臭く温い空気が喉に入り込み息苦しさにえずく。

僅かな灯りもない暗闇では、視覚以外の感覚器が鋭敏になり、いらぬものばかりが気にかかる。

それは勿論、嗅覚に留まらなかった。

聴覚が捉えた規則的な足音に、千影は頬を強張らせた。

次第に大きくなる靴音は、ギシギシと階段を軋ませると、扉一枚隔てた向こうでピタリと停止する。

軽いノック音が、狭い室内にやけに響いて聞こえた。

「こんばんは。生きているか、航海士殿」

凛と張りのある低音が、決まり文句となりつつある挨拶を寄越した。

つい応じてしまいそうになった千影は、慌てて唇を引き結び沈黙を守る。

言いたいことは山のようにあるが、一々相手をするからいけないのだと、ここ数日で学習した。

心身ともに疲弊しきってはいたが、それくらいの判断を下すだけの思考力は残っていた。

「なんだ、ついに死んだのか?」
「……」
「そうだとしても、約束の期日まで扉を開けるつもりはないぞ」
「……」

こちらの無言を策と取ったのか、牽制のセリフが続けられる。

だが、今の千影に相手をはめて脱出をするほどの余力はないし、仮に平時と変わらぬ状態だったとしても、一度交わした約束を反故にすることはなかっただろう。

扉の向こうにいる男は、言葉を発することなく黙りこくるこちらに、再度話しかけた。

「海軍の士官は返事の一つも出来ないのか」
「……」
「教養のない海の軍人がいるとは、随分と時代は変わったらしい。俺がこれまで出会ったヤツらは、馬鹿みたいに上品ぶっていた」
「……」

嫌味にも決して応じず、拳を握って堪える。

散々な言われように、腹の中では熱いものがふつふつと煮えている。

冷静さは千影の持ち味だが、同時に沸点の低さも特徴だ。

忍耐が焼き切れるのも、時間の問題と思われた。

「おい」
「……」
「意識はあるか……?」

暗闇の中、研ぎ澄まされた聴覚が受け取ったのは、不安。

その瞬間、爆発間際だった怒りがスッと冷却されて、千影は詰めていた呼吸を盛大に吐き出した。

この男も自分も、何かが間違っている。

「生きてる。俺はそんなにヤワじゃない」

この日、初めて発した声は掠れていた。

突然のことに声道が驚いて、軽く咽てしまう。




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