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そんな光の内心に気付かないのか、仁志は嬉々として落とし穴の説明を始めた。
「いいか、お前の手前にあるのが泥水入り。でかいビニール袋を中に仕込んで、そこに水を溜めておくんだ。左斜めのは枝でクッションを作ってある分、穴が深くなってる。男の平均体重から考えられる落下速度をもとに、怪我しねぇぎりぎりの深さを割り出してある」
「……」
「そっちのは白粉があるから、落ちたら泥水並に悲惨だぞ。下に向かって幅を広く作ってるから、舞い上がった粉が中々飛散しないようになってんだよ」
本気だ。
仁志は本気で落とし穴を作っている。
多趣味な彼は好奇心が強く、やってみたいと思ったことに対して迷いがないことは知っている。
だが、いくらなんでも落とし穴はないだろう。
光はもう何かを言う気力もなくて、静かにこの場を後にしようとした。
そのときである。
背後からかかった訝しげな声は、聞き慣れた人物のものだった。
「長谷川、そんなところで何をしている?」
「え?」
「げ、会長!?」
「なんだ、仁志もいるのか。休憩時間はもう終わるぞ」
振り返れば、何気ない足取りでこちらへと近づいて来る穂積と目が合った。
彼は光の全身にさっと目を配ると、特に何かがあったわけではないと気付いたのか、安堵した風に頬を緩めた。
「校舎に寄ろうとしたら、お前が道を逸れるのが見えてな」
「心配してくれたんですか……?」
「まだお前に反感を持つ輩はいるんだ。下手なところに踏み込むな」
「すみま――」
迷惑をかけてしまったことに対する申し訳ない気持ちと、気にかけてくれる穂積の優しさに嬉しさを覚えながら、ぺこりと頭を下げた光は、お礼の言葉を最後まで口にすることが出来なかった。
まっすぐに歩いて来る穂積の進路上には、先ほど仁志が説明をした白粉入りの落とし穴があったのだ。
まずい。
このままでは穂積は確実にむせ返ることになる!
瞬きの間にも満たない間に察した光の脳内を、常時を上回る速さで電気信号が駆け廻った。
声をかけてストップを促すには時間が足りない。
穂積の歩く速さ、歩幅から計算するに、それでは手遅れだ。
次の光の動きは、身体能力の優れた彼にとっても過去ナンバーワンの俊敏さと正確性のあるものであった。
巧妙に偽装されたいくつもの落とし穴を、軽やかに避け穂積の背後へと回るや、光はその広い背中に抱きついたのである。
「っ!?」
声をかけるよりも実力行使で動きを止める方が早いなど、常識的に考えればあり得ないだろうに。
何故だかそのときは、それが穂積を落とし穴の被害から回避させる最も的確で有用な手段であったのだ。
だが、何も知らない穂積としては驚かずにはいられない。
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