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それに今度こそ紛れもない笑みを浮かべて、千影は言った。
「真昼の膝は、流石に遠慮したいので」
「……」
「これだけ近ければ、横も上も変わらないだろ……ってうわ!」
「いや、違うな」
言葉が終わらぬうちに、腰に回った腕に強く引き寄せられた。
千影は呆気なくバランスを崩して、穂積の上へと乗り上げるように倒れ込んだ。
スーツの胸に頬がぶつかる。
「いきなりなんですかっ」
「隣に座るのと、俺の上に座るのじゃ、違うだろう?」
当たり前だ。体勢や安定感はもちろん違う。
だが、穂積が言っているのは、そんなことではなかった。
「俺の満足感が、全然違う」
「っの、傲慢魔王!」
間近で笑う男に、千影はお決まりのセリフを叩きつけた。
俺様な物言いに、反発心が羞恥心を凌駕する。
腕を突っぱねて、出来る限り距離を取ろうと試みるのだが、腰の中心を押さえられているせいで、中々上手く行かない。
抗議のために睨みつけた先で待っていたのは、呑まれそうに深い色合いの双眸だった。
「お前に触れていられるなら、どんな魔王にでもなってやる」
堂々と言い切られて、唖然とする。
必死に抗おうとした自分が馬鹿らしくなって、脱力してしまう。
穂積相手に抵抗したところで、意味などないと言うのに、無駄な足掻きだった。
観念した千影が体を預けると、穂積は満足そうに笑いながら、華奢な身体を柔らかく抱きしめた。
「抵抗は終わりか?」
「もう、いいです」
投げやりな口調で返すと、宥めるように彼の掌が背を撫ぜる。
その優しい手つきに、うっかり安堵してしまうのが、少しばかり悔しかったけれど、否定することは出来なかった。
触れ合った箇所から生まれる、新たなぬくもりが快い。
伝わる相手の鼓動に気持ちが凪いで行くのが分かる。
耳に届くのは、北風に揺れる窓硝子の振動と、二人分の呼吸音だけ。
荒れた心は次第に落ち着きを取り戻した。
「……どうして碌鳴館に?」
彼の胸に頭を寄せて、千影はぽつりと訊ねる。
それは穂積が執務室に現われてから、ずっと疑問に思っていたことだった。
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