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穂積らしくないと、すぐに気付けなかった自分自身が嫌になる。
僅かな悔しさから咎めるように穂積を睨みつけるが、彼は楽しげな微笑を秀麗な面に浮かべるだけで、まったく堪えた様子はない。
それどころか。
「千影、俺の名前くらい呼べるだろう」
「っ!」
「呼んで、俺の隣りに座るくらい、簡単なことだ」
あっさりと無理難題を要求して来た。
どこが簡単だと言うのだろう。
今の千影からすれば、どんな場所に潜入調査に入るよりも、ずっと難易度が高い。
こちらが自然とそういう気分になるならいい。
穂積への恋心が緩やかに昂ぶって、彼の傍に在りたいと自ら望むなら、きっと彼の「簡単」という表現は正しいのだ。
けれど、まるで予想もしないときに、相手から仕掛けられるとなれば話は別だ。
深奥に宿る想いに、穂積から火を付けられるのに、千影はまったく弱かった。
「千影」
この世の何よりも大切そうに名を呼ばれて、千影は知らず俯いて行く。
甘い空気に少しも慣れてくれないこの身が恨めしい。
いつだってドキドキさせられて、持ち前の冷静な思考は呆気なく砕け散ってしまう。
逃げ出したいのに、逃げ出したくない、矛盾した想いが全身を支配する。
千影はまったく弱かった。
穂積 真昼という男に、まったく弱かったから。
「ま、ひる……」
消えてしまいそうなほど小さな声で、呟く。
あぁ、たった三文字がこんなにも心を震わせるなんて。
それが彼の名前だと言うだけで、なぜこんなにも鼓動が高鳴るのか。
そろり、と上目で相手を窺えば、彼は堪え切れない愛おしさを微笑みに溢れさせていた。
「夏のときは、もっときちんと言えただろう」
「あのときとは、状況が違う」
「どんな風に?」
どんなって、と千影は口ごもった。
何もかもだ。
千影は穂積のことが好きだと自覚していて、穂積は千影が光だと知っていて、穂積は千影のことを好きだと言ってくれたのだ。
何もかも、あのときとは違う。
穂積を騙していた、正体を告げられずにいた、あのときとは。
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