B




エレベーターに乗り込んで来た男は、光の手首を掴むや自分の胸へと引き寄せた。

勢いに負けて傾いだ身体が、他人のぬくもりに包まれる。

「わっ……」

穂積の顔が寄せられ、光は反射的に目を瞑った。

「……」

だが、予期していた衝撃は一向に訪れない。

気配はあるのに、唇は平熱のまま。

一体どうしたのだろうと、恐る恐る目を開いて――

「見逃そうと思ったが、やはり無理だ」

光は息を呑んだ。

視界を満たす漆黒は、彼の瞳。

気付くまでに数秒を要するほど、極彩色の煌めきは間近で瞬いていたのだ。

「暴かずにいてやる。だから、もう少しだけお前の時間を寄越せ」

嫉妬の滲む強引な囁きに、唇を舐められる。

今にも触れそうで、けれど決して触れることのない僅かな距離。

空気の振動が、零れる吐息が、彼の有する体温が、幾度となく光の元へと届くのに。

唇だけが、重ならない。

それは触れぬ口づけとも言えた。

心臓が壊れそうだ。

少しでも動けば、二人の間を通る糸のような隙間は、あっさりと埋まるだろう。

光は呼吸さえままならず、頭がおかしくなりそうな感覚に苛まれた。

もどかしくて、堪らない。

「千影」
「あ……」

真の名を紡がれ、閉ざした口から思わず音が漏れる。

その瞬間、ピリッと何かが唇を掠めた。

穂積ではなく、光が動いたことによって二人の隙間が消えたのだ。

理解するや、光の頬に朱が走る。

まるで焦れていた内心を、告白したようではないか。

居た堪れなくて視線を逃がせば、穂積はおかしそうに喉を震わせた。

抱きかかえていた腕を解き、狭いエレベーターの中で距離を取る。

「少し、イジメ過ぎたか」
「あ、の」
「仁志が待っているんだろう。続きは帰ってきたら、だな」

戸惑う光に優しく微笑むと、穂積はいつの間にかけたのか、エレベーターのロックを外した。

そのまま扉を開いて降りようとする相手に、光の我慢は限界を迎えた。

広い背中に抱きついて、箱の中に引き留める。

ここまで焦らしておきながら、あんなささやかなキス一つで投げ出すなんて。

ずるい。

「こんな気持ちで、買い物なんて出来るわけないっ……」

剥き出しの感情は穂積の背ではなく、唇へと吸い込まれた。

光の拘束を振りほどくや、穂積は身を返して光の顎を攫った。

理性の戒めから解き放たれたように、急いた様子で喰らいつく。

焦れていたのも、煽られたのも、光一人ではないと教えるように。

深く、深く。

繋ぎ止めるかのような濃密な口づけに、光の意識は淡く滲む。

正気の在り処を忘れるほど翻弄され、ただ自分の求めた結果を受け止めるだけだ。

コートのポケットに入れた携帯電話が、仁志からの着信で身を震わせていることに気付いたのは、確信犯の魔王だけである。

「いつも、優先されると思うなよ」
「え、なに……ん」

この日、光が遅刻した時間は三十分を超えていたとか。


fin.




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