◇
無意味な悪あがきだ。
すでにラストオーダーの時間は過ぎており、賑わっていた店内も静まり返っている。
どれだけ名残惜しくても、現実を無視するわけにはいかなかった。
光は今にも溢れ出しそうな本音を堪え、理性を口にしようとして――。
「気に入ったのは、料理の味だけか」
「え?」
「ここは夜景も売りの一つなんだが、楽しめたか?」
唐突に切り出されるも、すぐに得心する。
穂積のいう通り、上階に位置するこのレストランは展望が利く。
城下町の華やかな夜景は、セールスポイントとして充分だ。
光は「もちろん」とばかりに頷いた。
「眺めのいい席でラッキーでしたね。すごく綺麗で、ずっと見ていたいくらいでした」
「なら、そうすればいい」
穏やかに凪いでいた黒曜石の双眸に、ゆらりと熱情が過る。
思ったときには、光は手を取られていた。
抗うほどでもなく、かといって逃げ出せるわけでもない力加減でエスコートされ、レストランから連れ出される。
予想外の事態に混乱する光が口を開けたのは、エレベーターに押し込まれてからだ。
「会長? いきなりどうしたんですか」
「なんだ、もう呼び方を戻すのか。先輩でもさん付けでも、好きに呼べばいい」
「からかわないでください。そうじゃなくて、どこに行くつもりなんです。俺、もう帰らないと門限が――」
「帰るのか?」
「っ……!」
穂積の唇は緩やかな弧を描いていた。
けれど、注がれる眼差しは少しも優しくない。
建前で覆い隠した光の願望を暴くような、鋭い眼光が胸に突き刺さる。
人目がないのをいいことに腰を引き寄せられ、視線とは裏腹に優しい掌が頬を包み込む。
同時に、長い指先が戯れのように皮膚の上を滑り、耳朶を掠めて眠る官能を呼び起こす。
穏やかな微笑みと愛おしさを携えた手。
獰猛な灼熱を孕む双眸と、誘惑的な指先。
艶に濡れた低音が、少年の鼓膜を揺らす。
「帰りたいのか、千影?」
「……卑怯だ」
男の腕の中で、千影は喘ぐように零した。
まるでハニートラップ。
恋した相手に全身で求められては、抵抗のしようもない。
明日も仕事がある。
彼の体調だって気がかりだ。
けれどもう、隠しきれない。
否、隠していたくなかった。
千影は縋るように穂積の胸へ手を添えると、本音にかけた理性の鎖をそっと外した。
「帰りたく、ない」
瞬間、穂積の唇が落ちてきた。
強引に捻じ込まれた舌先に、驚愕よりも歓喜を覚える。
いつになく乱暴な口づけは、余裕の表情に隠れていた彼の本音を教えてくれる。
デートの終幕を惜しんでいたのは、焦がれる想いを抱えていたのは、千影だけではないのだと。
邪魔とばかりに眼鏡を剥ぎ取られる
奥深い場所まで突き進まれ、息苦しさに涙が滲む。
口角からどちらのものとも知れない唾液が滴り、ぶるりと身体が震えた。
執着を宥めるが如く浅い箇所を探ったあと、ようやく穂積はキスを解いた。
魂を喰らわれた心地で呆ける千影に、くすりと笑みを漏らす。
いつの間にか到着していたエレベーターの扉を開け、脚に力の入らない千影を支えてフロアに出る。
真紅の絨毯が敷き詰められたホールには、目の前に両開きの扉が一つあるだけだ。
霞みかかった思考が一時的に正気付き、千影は熱が残ったままの唇で問うた。
「スイートルーム……?」
「このホテルはレストランだけじゃなく、客室からの眺めも売りなんだ」
ICカードで鍵を開けると、穂積は楽しげにドアノブを引いた。
「夜景が気に入ったと言ったな。なら、存分に堪能していくといい。一晩かけて、たっぷりとな」
それが口実であるのは、確認するまでもなかった。
翌朝、意識を取り戻した千影が最初に思い出すのは、宵闇に浮かぶ城下町の姿ではなく、穂積との甘い時間なのだから。
Fin.
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