◇
いくら呼び慣れているといっても、けじめをつけるべきかもしれない。
そう思い至って、光は食事の手を止め姿勢を正した。
何が飛び出すのかと楽しげに待ち受ける男を見据えて、口を開く。
「穂積先輩」
「っ……そうか、そう来るか」
穂積はさっと顔を背けると、口元を右手で覆い隠した。
何やらぼそぼそと呟き、肩を震わせている。
予想とは異なる反応を示され、光は不安になった。
「会長」でないのなら、「先輩」呼びが妥当と思ったのだが。
何か間違えたのかもしれない、と慌てて考え直す。
光の認識が正しければ、先ほどの穂積は期待をしていた。
光が選ぶ新たな呼び名を、嬉しそうに待っていた。
つまり、彼には光から呼ばれたい呼び方があるということ。
そこまで思考を進めて気が付いた。
光と穂積は、ただの先輩後輩以上の間柄にある。
ならば穂積が求めるのは、恋人だからこそ許された呼び方ではないか。
光は僅かな逡巡のあと、ぎこちなく言った。
「真昼、先輩」
「っ……!」
「え? これもハズレですか? ……あ、分かった!」
「!?」
「真昼さん」
「っっっ!」
なぜだろう。
新たな呼び方を試すほど、穂積の頭が沈んでいく。
テーブルの上に置かれた拳が、きつく握り締められているのを見て首を傾げた。
「あの、真昼さん? 俺、なにか間違えてますか」
「いや、間違ってはいない。ただ」
「ただ?」
先を促せば、穂積は目を逸らしたまま小さく続けた。
「想定していなかっただけだ。まさか、お前から先輩や敬称をつけて呼ばれるとはな」
「はい?」
「……妙な気分になる」
光は絶句した。
指摘を受けて初めて気付いたのだ。
穂積が望むのは、単に「名前」で呼ばれることなのだと。
恋人を「呼び捨て」るのは、なんらおかしな行為ではない。
自然といってもいいだろう。
それにも関わらず遠まわしな呼び方をしたのは、意図的とも捉えられる。
恋人をあえて「真昼先輩」や「真昼さん」などと呼ぶ――そこに含まれる倒錯性を示唆されて、どうして赤面せずにいられるのか。
羞恥に色づいた顔で釈明を試みるのは当然だった。
- 55 -
[*←] | [→#]
[back][bkm]