この男は壊れている。

壊したのは木崎だ。

若く、愚かで、何も知らずにいた残酷な過去の木崎なのだ。

だから、己には受け止める義務がある。

木崎はゆっくりと腕を持ち上げる。

長い腕はそのまま間垣の首に回り、彼の体を静かに抱き寄せた。

肩口に埋まった熱が滲む。

縋るように二の腕を掴んだ指先が、スーツに皺を生んだ。

「もう嫌だ……何で貴方の忠犬でいさせてくれないんです。貴方を責めたくなんてないんです。ただフミさんの命令を聞いて、傍にいたいだけなのに、何で今またこんなことをするんですか。俺のご主人様にあの子以外の主人はいないんだって、なんで信じさせてくれないんだ」

哀れな男だと思う。

間垣は気付いていないのだ。

未だにあの時のまま、木崎の変化を受け入れられずにいる。

過去に囚われているために、すべての木崎が過去の木崎と結びつくのだ。

躊躇いのキスが、ドラッグ調査への執着だと誤解してしまうくらいに。

過去の恐怖が彼の足を止めている。

主人はここまで理解しているというのに、忠犬は何をしているのだろう。

不甲斐ない犬に呆れると同時に、不甲斐ない犬にしてしまった自分を憎く思う。

痛い、苦い、甘い、熱い。

哀れな男だ。

木崎は自嘲した。

「分かってないのはお前だろ」

その一言は決然とした響きを持って車内を支配した。

弾かれたように顔を上げた間垣は、驚愕に満たされた表情だ。

揺れる瞳を捕まえて、強い意志の宿った双眸を突き合わせれば、抱き込んだ逞しい体が強張る。

木崎ははっきりと告げた。

「誰のためにキスだけで片をつけたのか、分からないなら忠犬を名乗るな」

瞬間、間垣は息を呑んだ。

見開かれた瞳が信じ難いものを見るように幾度も瞬かれる。

恐る恐る開かれた口が、震える問いを紡ぎ出す。

「……躊躇ったんですか?」
「……」
「少しでも、考えてくれたんですか? 悩んだんですか? 俺のために?」

連なる疑問符は確認だ。

示された変化が真実であるのかを見定める男へ肯定を与える。

「俺の体は安くない。俺の心には千影しかいない。俺は忠犬を手放すつもりはない」

静かな宣言をした木崎は、それから僅かに顔を傾げた。

そのまま唇が触れ合うのを、間垣はじっと待っていた。

痛い、苦い、甘い、熱い。

触れる、食んで、啄む。

かさついた感触と馴染み深い肉の弾力、恐ろしいほど生々しい体温に背骨が震える錯覚。

薄い唇に舌を伸ばせば従順な口腔はすぐに木崎を迎え入れて、少しだけ急かすように舌先を前歯で噛んだ。

それを優しく宥めて、丹念に内側を這いずり回りゆっくりと制圧する。

深く、浅く、何度も与えてやれば、車内は艶めかしい音と息遣いに沈んだ。

互いの唇の狭間で煙草の味が混ざって、唾液が、吐息が、熱情が一つになった。

追い縋る間垣を押し留めた木崎は、交わりを解くとゆっくりと目蓋を開いた。

遭遇した物欲しげな瞳に満足感を覚える。

「俺が躊躇いもなく「俺」を使うのは、千影のためか……忠犬の躾のためだ」

木崎は主人だ。

哀れな忠犬を受け止め、与え、結局はすべてをその手中に収める絶対の主なのだ。

間垣が望む限り、その首輪は二度と外されない。


fin.




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