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マンションのエントランスを潜ったのは、日付も変わって久しい時分だった。
三月も終盤となると仕事量は一気に増える。
平時からオーバーワーク気味の男にとって、毎年のことながらこの時期は地獄だ。
文字通り、寝る間も惜しんで書類と格闘している。
深夜の帰宅が続いて、今日で三週間。
疲労はピークに達していた。
最上階直通の専用エレベーターを待ちながら、穂積 真昼はネクタイを緩めた。
「お疲れさまです」
心地よい中低音が、脆くなりかけた神経に心地よく馴染む。
穂積は疲労が滲んでも尚美しさを失わない秀麗な面を、ふっと緩めて傍らを見下ろした。
「お前もな」
「会長の疲労度とは比較対象にもなりません」
苦笑交じりに応じたのは、容姿端麗な青年だ。
穏やかな茶色の髪は一日の終わりに差しかかってもまだ艶やかで、その下から穂積を見上げる双眸も優しい色合いを保っている。
すらりと伸びやかな痩身が纏うスーツは、若干よれているものの、それがかえって清廉な彼に不思議な色気を与えていた。
高校時代からさらに磨かれた美貌で、千影は気遣うように微笑んだ。
「明日は久しぶりの休日ですから、今日はゆっくり休んで下さい」
「ゆっくりか……」
「仕事に手をつけたら一週間レトルトかデリバリーですから」
穂積は仕事中毒を疑われるほどに仕事熱心だ。
すべてはHOZUMI後継者としての責務ゆえだが、本人の性格も大きく影響しているのは間違いない。
中途半端に仕事を放置しておけない性分で、明日も書斎でパソコンを開こうと考えていたら釘を刺されてしまった。
やって来たエレベーターに乗り込みながら、千影は脅迫にも似たことを言う。
「俺に貴方の食生活を崩させないで下さいね」
「……分かった。明日だけは仕事を忘れる」
千影の手料理は絶品だ。
食に関心の薄い穂積が、彼の作る食事ならば毎日三食口にしたいと思うほど。
もちろん、味の良しあしに関わらず、千影の料理ならばいつだって喜んで食べるのだが。
上昇を続けるエレベーターは、三十五階まで止まらない。
もう暫く時間がかかると踏んだ穂積は、傍らの青年に気付かれぬようひっそりと口端を持ち上げた。
「だが、ここ最近ずっと仕事をしていたからな。休日を持て余しそうだ」
「久しぶりに読書はどうですか?買ったまま積んでる本が、書斎に山を作っていたはずだろ」
「活字を読む気分じゃないな。それより、もっと有意義な時間の使い方をしたい」
「有意義、ですか。何かあるかな」
生真面目な彼は、穂積のために首を捻っている。
思案を始めたその隙を突いて、穂積は千影の腰に腕を回して引き寄せた。
細さを確かめるように、深く抱き込みエレベーターの壁に押し付ける。
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