E
いつ誰が来るとも知れない昼間の保健室。
こんな場所で穂積の理性を焼き切ろうとするなど、危険以外の何ものでもない。
まったく無防備過ぎる。
穂積は重く深い嘆息をつくと、身内で暴れ回る凶悪な欲望をどうにか理性の鎖に繋いだ。
「……俺の負けだ。手当してやるから、早く授業に戻れ」
「え?」
「なんだ、このままサボるつもりだったのか」
俺と二人で。
続く言葉を呑み込めた自分を、全力で褒めてやりたい。
言ってしまったら、もう止めることなど出来なかった。
例え光にその気が一切ないと知っていても。
内心で苦笑を漏らしつつ、未練を断ち切るつもりでベッドから起き上がる。
それを引き留めたのは、縋るような細い両手だった。
きゅっと腕を掴まれ目を見開く。
「どうした……」
「いや、あの、変な意味じゃないんです」
「は?」
光は視線を四方に彷徨わせながら、ぎこちない調子で言葉を紡ぐ。
「人間は怪我をすると、心細くなるそうです」
「あぁ、そう聞くな」
「それは俺も例外じゃないんです」
「お前も人間だからな」
「だから、この時間が終わるまででいいから……一緒にいてもらえませんか」
消え入りそうな声で告げられた内容に、穂積は息を呑んだ。
今、光は何と言った。
傍にいて欲しいと。
心細さを和らげて欲しいと。
穂積を求める言葉を言ったのだ。
果たして、いつの頃から願っていたのか。
恋情を自覚するずっと前から、穂積は切望していた。
光から手を伸ばされることを。
見下ろした先には、己の腕を掴む華奢な両手。
これは、穂積を頼って伸ばされた手だ。
他者に寄り掛かることの出来ない少年が、穂積にだけ伸ばした手なのだ。
何も返すことが出来ずにいると、光は慌てて前言撤回を始めた。
「すみません、図々しいことを言いました。会長だって忙しいのに」
「……長谷川」
「あの、俺やっぱり一人で平気です。手当も――」
「千影」
たまらなかった。
胸が引き絞られるように痛み、息苦しさすら感じた。
強く激しく高鳴る鼓動を彼にも伝えたくて、感情のままに薄い身体を抱きしめる。
この想いの名を、誰か教えてくれ。
「傍にいる。この時間だけじゃない、ずっとだ」
「あ……」
肩にぶつかる眼鏡が邪魔だ。
本来の色彩を覆う黒髪も、今はいらない。
いつ誰が来るとも知れない保健室。
そう思って我慢したばかりだと言うのに、ありのままの千影が見たくて仕方がなかった。
片手で眼鏡を奪い取り、もう一方の手で鬘を固定しているピンを抜いて行く。
「会長、待って」
「悪い、無理だ」
甘く掠れた抗議には、何の力もありはしない。
形だけの抵抗を切り捨てて、千影を隠す装飾品を投げ捨てる。
理性の鎖は一体どこへ行ったのか。
抑圧から解放された本能は、勢いを増して表出した。
やや乱暴な手つきで千影を押し倒し、無遠慮なほどしっかりと頬を包み込む。
真っ向から結んだ視線が、熱を煽るようだ。
動揺と羞恥、そして僅かな期待に彩られた愛しい相手の瞳を覗き込み、穂積はゆるりと笑みを浮かべた。
艶やかで妖しく、何より獰猛な本能の笑みを。
「お前、他にも怪我をしたんじゃないのか?」
「え? いいえ、足だけですけど」
「どうだろうな、また隠しているかもしれない。だから、確かめないとな」
「それってまさかっ……んぁ」
噛り付いた唇は、いつもより甘い。
やがて首に回された縋るような二つの腕を、穂積は至福の想いで受け止めた。
授業の終わりは、まだ遠い。
fin.
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