暗雲。
「おはよう、仁志」
「……はよ」
毎朝やってくる迎えの友人は、こちらを見ずに返事をした。
転校して来てからと言うもの、仁志は決まった時間に光の部屋を訪れる。
そのまま一緒に朝食を取り、登校するのが日課だった。
さっさと歩き出す背中に遅れぬように、小走りで付いていく。
何せ足の長さが異なるので、もたもたしていれば置いていかれてしまうのだ。
以前は光を気遣ってか歩調を合わせてくれていたが、どうも違うと気付いたのは随分と前のこと。
前を見据えているはずなのに、どこか焦点の合わない鋭い双眸から、彼が意識を内側に向かわせているのだと知る。
極端に減った仁志との会話や、ぶつかってもすぐに逸らされる視線。
確実に避けられている。
光は無意識に口を引き結んだ。
嫌われてしまったのだろうか。
彼も碌鳴の人間には変わりない。
容姿が落ちこぼれている自分など、最初は興味本位で近付いたが、もう飽きてしまったのだろうか。
弾き出された考えを、けれど光はすぐに打ち消した。
短い時間ではあるが、彼と接していて少しは性格も掴めている。
光が知りえる仁志を鑑みれば、どうもその理由は当て嵌まらないように思えた。
本当に興味を失ったのなら、きっと仁志は光の世話など見ないはずだ。
ビジュアル目当てに近付こうとする周囲の生徒たちとの交流を、彼は極端に嫌っていて、下手に話しかけようものならば徹底的に排除する。
一度など、構って欲しさからワザとぶつかって来た少年を、容赦なく蹴り飛ばしていた。
勿論、すぐさま光が止めたが。
そんな彼が本気で嫌っている人間を、律儀に向かえになど来るはずがない。
食堂に入ると、今日も今日とて騒がしい悲鳴が耳を劈く。
「仁志さまぁぁぁっ!」
「こっち見て下さぁいっ」
先を歩く仁志には、歓声が。
そして。
「死ねよブサイク」
「仁志様から離れろ害虫がっ!!」
続く少年には罵倒が湧いた。
生徒会からの勧告は絶対だ。
光に対する暴力及び暴言は禁止されている。
それでも、これだけ大勢の中に紛れてしまえば誰が言ったかなど特定されないと思っているらしく、食堂での悪意は規制しきれてはいなかった。
ただでさえ仁志との関係がギクシャクしているのだ。
普段ならば気にならない騒音が、やけに響く。
思わず顔を俯かせてしまった光は、けれど罵倒を掻き消すように発せられた声に驚いた。
「てめぇら朝からうっせぇんだよっ!ガタガタ騒ぐんじゃねぇ、殺すぞっ」
前を歩く男の肩から立ち上る怒り。
背中が纏う雰囲気の鋭さに、きっと端整な面は更に恐ろしいのではないかと察する。
騒がしかった食堂が、一気に静まり返った。
生徒会役員の本気の怒声に、密やかな会話すら流れない。
「光、悪かったな。さっさと飯にするか」
「あ、そうだな」
促され、光は慌てて席を見つけた。
黒服が差し出すメニューを受け取りながら、対面を伺う。
彼は一瞬前の怒りなど忘れたように、涼しい態度で料理を選んでいた。
いつもより数段の威力を有してはいたが、やはり仁志はこちらを気遣ってくれているのだと実感する。
どこか当り散らすようではあったけれど、嫌う相手のために怒りを覚えるような性格ではないはずだ。
自分は、嫌われているのではないと確信した。
しかし、そうなると益々説明がつかなくなる。
仁志がよそよそしい理由。
こちらを避けるのは、なぜだろう。
料理を決めてカードをスラッシュしたとき、少年はふと思い出した。
『お前、俺とどこかであっただろ』
サバイバルゲーム中に問い詰められ、そして逃亡という選択肢を選ばざるを終えなかった台詞。
真剣な色を持って投げられた疑念の言葉。
まさか、それが原因?
仁志が光との出会いに疑問を抱いていることは、転校初日から分かっていたことであったし、先月の行事でも明確な追及を受けた。
だが、ゲームが終了してからと言うもの、仁志はそのことについて一切触れては来ない。
勘違いだと思い直したとか、あの騒動で忘れているのかもしれないとか。
都合良く考えていたが。
もしや、勘付かれたのでは。
光は眼鏡に隠された瞳で、じっと正面の存在を見つめ続けた。
注意深く探ったところで、相手の内面など見抜けるはずもないのだろうが、見詰めずにはいられない。
光とキザキが同一人物であると、気付いてしまったのか。
ならばどうして、光に直接言って来ないのだろう。
あれだけ拘っていたのだし、彼のはっきりとした性質を見れば、今のように内側で考えるのは似つかわしくない。
何か、追求しないワケでもあるのか。
追求出来ないワケ。
シルバーのカードを持つ指に、力が入る。
調査員としての自分が導き出した仮説に、息が苦しくなった。
後ろ暗いことがあるからこそ、外見を変えて自分の前に現れた光を、警戒しているのではないか。
面と向かって言わないのではないか。
これほど自分を大切にしてくれる仁志を、売人候補として見ている自分が、嫌で堪らない。
相手の親切の裏側を懸念する自分が、心底汚いものに感じられた。
自分の役割を忘れてなどいない。
何のために変装までして潜入しているのかなど、今更だ。
友達を作りに来たわけではないの。
麻薬のバイヤーを見つけるためだけに、ここにいるのに。
疑いのフィルターをかけた自分の瞳に、居た堪れなくなる。
そう思う己こそが、一番問題なのだと気付いたのは、和風御膳が運ばれて来たときだった。
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