穂積が知る中に、戸籍を持たない者は一人もいない。そもそも、戸籍の有無など考えたことすらない。それはかけ離れた世界の出来事で、知識はあっても身の周りで起こり得る現実ではなかった。

与えられた衝撃の強さに眩暈を覚える。信じがたい気持ちで見つめた先には、感情を排した冷たい双眸が在る。怜悧な眼光が揺らぐことはなく、浮足立った気持ちが急速に落ち着きを取り戻した。

「どうして……どうしてそんなことになる」
「コインロッカーベイビーって分かるか? 駅のロッカーに置き去りにされていた千影を、俺が見つけた」

過去、世間を騒がせた社会問題の一つが「コインロッカーベイビー」だ。

無人サービスの拡充により登場したコインロッカーは、便利な手荷物の預け場所として急速に設置数を伸ばした。

生後間もない赤ん坊が預けられると、誰が予想できただろう。

凄惨な事件は同時多発的に発生し、間もなく対策が講じられた。管理体制の整った現代では、まず起こり得ない事件である。

「だからといって、無戸籍とは言い切れないはずだ」
「捨て置かれた赤ん坊に出生届があると思うか? 調べた限り、千影に関する公的な記録は一切なかった。それに、俺も届け出ていない」

喉の奥から唸るように問い質せば、返って来たのは人間味を欠いた平板な声だ。耳にしたセリフを処理できず、思考が停止する。

穂積の向かいに座る男は、色のない瞳でうっそりと微笑んだ。形の良い唇が、三日月形に歪む。

「存在しない調査員ほど、使えるものはないだろう?」

本能的な嫌悪感が、背筋を駆け上った。ざっと肌が粟立ち、全身がきつく強張る。

目の前の美しい微笑みの裏側には、世にもおぞましい「ナニカ」がびっしりとこびり付いている――そう、思わされた。

「……なるほど、それで「罪人」か」

夏の終わりに渡された言葉は、そのままの意味で木崎と千影を繋いでいた。

「まだ覚えていたとは、さすがにHOZUMIの御曹司様は優秀だ」

冷めた目で茶化されても、文句を言う気にはなれなかった。悪寒を誤魔化すように、自分のカップへ手を伸ばす。珈琲はぬるくなり始めていた。

「期待通り、千影は便利に育ってくれたよ。あいつのおかげで仕事が捗った。けどまぁ、そろそろ本来の居場所へ帰してやろうと思ってな」
「身元が分かったのか」
「宮園家だ。すでに当主から話がいっている。上手くすれば、卒業を待たずに「宮園 千影」が誕生するだろう」

あっさりと返された答えにぎょっとする。

宮園家は国内有数の名家だ。現当主の宮園 義文が認めたのなら、千影は本家の人間に違いない。

義文には相続権を放棄した長男の一貴と、中学生の次男がいるものの、立ち位置によっては後継ぎになる可能性もある。

「存在しない」はずの少年は、上流階級の中でも一握りの人間だったのだ。

「おい、もっと嬉しそうな顔したらどうだ」
「は?」

次々と飛び出す衝撃の事実に息を吐き出せば、木崎はわざとらしく片側の口角だけをつり上げた。生気を欠いた瞳と相まって、ひどく気味が悪い。

「あいつに惚れているんだろう? 千影は「存在している」んだから、あとはお前の努力次第でどうとでもなるんじゃないか」
「何が言いたい」
「あれには色々と仕込んである。どういうつもりでも、囲い込んで損はないはずだ」

木崎の言い分に顔を顰める。言葉選びは兎も角、まるでこちらの気持ちを後押しするようだ。

穂積が抱く千影への想いは、今も変わらず胸の中で息づいている。頑なに穂積の手を取ろうとしない相手に、どう動くべきか分からなくなったのは確かでも、諦めるつもりは微塵もない。

千影の口にする「存在しない存在」を理解しないことには、二人の関係性は平行線のままだと判断し、ひとまず距離を置いただけだ。

木崎が穂積の想いを察していても、驚きはない。隠さずに来たのだから、むしろ当然と言える。

だが、応援されることには、強い違和感を覚えた。

なにかがおかしい。




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