出来損ないの嘘。




SIDE:穂積

重厚感のある木製扉を押し開くと、滑らかなスロージャズが鼓膜に触れた。日曜の昼間にも関わらず客はまばらで、前回訪れたときと同じく店内は落ち着いた様子だ。

窓際のソファ席を選ぼうとした穂積は、そこでようやく気が付いた。

店員の案内を待ち合わせと断り、中央の席へ寄って行く。

「時間通りだな、えらいえらい」
「……先に来ているとは思わなかった」

革張りの一人掛けソファに深く身を預け、長い足を持て余すように組んだ男は、甘く整った顔をにやりと歪めた。こちらを見上げる双眸には悪戯めいた光りが宿り、小ばかにされている気分だ。

穂積は対面のカウチソファへ腰を下ろすと、改めて男――木崎 武文を見つめた。

木崎は間違いなく目立つ男だ。色気のある顔立ちや長身に見合った長い手足が、人目を引くのは疑うべくもない。

それにも関わらず、穂積は彼の存在を見落とした。約束の相手はまだ来ていないと判断し、壁際の席へ行こうとしたのだ。

「調査員というだけあって、隠れるのが上手いな」
「それは千影に気付けなかったことへの言い訳か?」

意地悪く揶揄され、苦虫を噛み潰したような顔になる。

木崎は完璧に店内の空気に馴染んでいた。その鮮やかな存在感を極限まで消し去り、風景の一部へと自らを落とし込んでいた。素人の穂積が見過ごしたとして、誰が責められるというのか。調査員のスキルを使ったイタズラとは、些か性質が悪い。

「千影のことなら、ちゃんと見つけ出しただろう」
「随分と時間をかけたけどな。うちの千影は優秀だから、無理もないか」
「……そんな話をするために呼び出したのか? 生憎、保険医と違って忙しいんだ」

この件に関して、穂積に反論できる材料は一つもない。胸裏で舌打ちをするに留め、本題を促した。

千影から正体を明かされたとき、木崎についても説明があった。彼がインサニティの調査のために、碌鳴学院へ潜入していることは承知している。

学内での被害が収束したのもあり、穂積たち生徒会が行っていた調査は打ち切った。専門家の手が入っているのなら、余計な手出しはせずに任せておくのが最善だ。

もちろん、要請があれば協力するつもりだが、現在まで助力を乞われることはなかった。

今さら、インサニティの件で穂積を呼び出すわけがない。以前と同じ城下町の喫茶店を指定したのなら、木崎の用件は決まっている。

「千影のことか」
「聞きたいことがあるんじゃないか? 穂積 真昼くん」

木崎は思わせぶりな笑みを浮かべた。

人を呼びつけておいて、この態度。傲然とした眼差しに晒され、反射的に苛立ちが湧き上がる。

だが、これは好機だ。

木崎の指摘通り、穂積には聞きたいことがいくつもある。子どもじみた対抗意識でチャンスを無駄にするほど、愚かでもなければ余裕があるわけでもない。

注文していた珈琲がテーブルに置かれるのを待って、穂積は口を開いた。

「お前は、千影のなんだ」

この日、初めて対面の顔から笑みが消えた。

「……前にも聞かれたな」
「訊ねろと言ったのはそっちだ」
「あぁそうですね、ハイハイ。ったく、本当に嫌味なヤツだな」

先ほどまでの余裕はどこへ行ったのか。不貞腐れた様子で文句を垂れる。まるで自棄酒のように珈琲を呷る姿を訝しんでいると、彼は深く長い溜息をついた。

暫時、沈黙が流れる。

そうしてようやく穂積に向けられたのは、あまりにも鋭い視線だった。

「人が存在するとは、どういうことだと思う」
「人が……? どういう意味だ」
「なにをもって、存在を認められる?」

まるで謎かけだ。疑問に対する返答とは、到底思えない。

ただ一つ分かるのは、これが木崎にとって、なにより千影にとって重要な問いということだ。

「ヒントをやろうか」

答えあぐねていると、木崎は小さく口端を持ち上げた。穂積を馬鹿にするものとは異なる、自虐的な笑みだった。

「社会的に人の存在を証明するものはなんだ」

瞬間、穂積の脳裏に千影の姿が蘇る。

――「光」も俺も存在していないんです

深夜の碌鳴館で告げられた、不可解な否定の言葉。いつかの口づけを真似るように渡された、頼りなく震える熱。同じ想いを抱いていると認めながら、千影ははっきりと穂積を拒絶した。

明かされたのは、間違いなく本音だった。けれど、その意味を理解することは出来ずにいた。

今、このときまでは。

「千影は、社会的に存在しない……? おい、まて。まさか!」
「そうだ。千影には戸籍がない」

動揺する穂積を無視して、木崎は「正解」を口にした。「無戸籍」という現実味のない答えを。




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