悪癖。




帰り支度を始めたのは、午後八時を過ぎた頃だった。

簡単にデスク回りを整えて、ブレザーを羽織る。藍色のマフラーを首にかけながら、光は深く息を吐き出した。

昼間、渡井と話したことが思い出される。内部の者による犯行と結論付けたが、具体的にどう対策を講じればいいのか。

早急に手を打たなければならないはずが、光の頭はちっとも働かず、ただ気持ちを落ち込ませているばかり。常と同じスピードで仕事を進めてはいたものの、終業までについたため息の数は、誰に指摘されなくとも自覚するほど多かった。

「それじゃ、俺はもう上がるから」
「お疲れさまです、長谷川先輩」

区切りのつくところまで、と返す鴨原に施錠を頼んで、光は執務室を出た。

主だった照明が落ちた廊下は薄暗く、等間隔で壁に並んだランプがぼんやりと橙色の光りを浮かべている。

新生徒会執務室の扉を背中にしたまま、光はその温かくも寂しい明かりを見つめた。

「……疲れた」

考えるべきこと、考えたくないこと、考えても意味を成さないこと。目の前にあるいくつもの問題が、光の心に重く圧しかかる。生徒会の業務すら、現実逃避の手段として使えなくなり、気を紛らわせることも儘ならない。

眼鏡の内側でふっと瞼を閉ざせば、一つの人影が像を結びかけて、慌てて目を見開いた。

「それ」を考えるのは、あまりに身勝手だ。

扉の開閉音は、すぐ近くで聞こえた。

現生徒会執務室から出て来た男は、廊下に立ち尽くす光を見て驚いたように目を瞬いた後、眉間にしわを寄せた。

険しい表情を向けられても仕方がない。光は彼を――穂積 真昼を拒絶したのだ。

軽く会釈をするに留めて、足早に立ち去ろうとする。

「待て」と短い制止の声に、大袈裟に肩がはねた。階段を下りかけていた足を止め、ぎこちない動きで振り返る。待っていたのは寸前に見た不機嫌な顔だ。

穂積の誕生日以降、彼と顔を合わせる機会は激減した。

日々の生徒会業務に追われる光に対し、引き継ぎを終えつつある穂積は学外へ赴くことも多いようで、近頃は碌鳴館ですれ違うことすら稀だ。あれほど頻繁だった穂積からのアプローチがなくなった今、こうして彼と向き合うのは久しぶりだった。

「……ご用でしょうか?」

他人行儀な口調で問う。穂積の顔はますます険悪なものになり、反射的に心臓が竦む。同時に、例え不機嫌な顔であっても想い人の姿を見れた喜びを感じる自分がいた。

「なにかあったのか?」

控えめな問いかけに、じくりと胸が痛む。

千影は告げた。穂積の気持ちに応えることはない、と。例え同じ熱を抱えていても、決して心を渡しはしない、と。

今の千影に許された感情すべてを明かした上で、彼の想いを拒んだのだ。

それでも尚、穂積は気付いてくれる。次々と襲い来る問題に疲弊した千影を、決して見逃さない。

黒曜石の眼差しは今もまだ千影に注がれたまま。あの夜から変わっていないのだと、否が応にもなく理解させられた。

「……副会長方内部で少し」
「どういう――」
「仁志には随時、報告しています。早急に対処しますので、会長のお手を煩わせることはありません」

追及を遮り先手を打つ。取りつく島もない光の態度に、穂積の纏う空気が凍りつくのがわかったが、白状する気は微塵も起きなかった。

脳にこびりついた「依存」の二文字が、光の心を固く縛りつける。

「持ち帰りの仕事があるので、これで失礼します。お疲れさまでした」
「誰かに相談したのか?」

先ほどまでの不機嫌顔を消し、真剣な表情で問われて我に返った。

光は新生徒会副会長だ。現在まで続く職務上の問題を、新生徒会の監督責任者である穂積に報告しないわけには行かない。仁志に知らせるだけでは、不十分なのだ。

個人的な感情に囚われるあまり、仕事における基本事項を疎かにしかけていたと気付いて、光は深く反省した。

居住まいを正して向き直り、義務を果たすべく口を開く。

「現在、副会長方内部で相次いで不審なミスが起こっています。書類の紛失及び、各方への連絡漏れなどが主だった問題です。今のところ情報の外部流出は確認されていません。副会長方へは情報管理の徹底を指示しており、仁志会長にもすべて報告を――」
「長谷川、相談をしているのか?」

今度は穂積が遮る番だった。

言い含めるように繰り返され、困惑する。意図が分からず口を閉ざせば、穂積は深いため息をついた。

「ここまで来ると、もはや「悪癖」だな」
「どういう意味ですか」
「お前の周りにいるのは無能ばかりか? 相談したところでロクな案が出ないと、侮っているんだろう。人材に恵まれず、憐れなことだな」
「そんなわけない! いくら会長でも、彼らに対する侮辱は聞き捨てなりません」

共に生徒会業務に励む新役員の面々も、懸命に力を尽くしてくれる副会長方の委員たちも、光にとっては大事な存在だ。それぞれに得手不得手があり、能力差があるのも事実だが、嘲るような言葉の数々をどうして受け入れられるだろう。

「侮辱しているのは、お前の方だ」

予想もしない指摘に息を呑む。

「あぁ、それとも驕っているのか? 自分だけで解決できると。仁志からはすでに四回も書類の紛失があったと聞いているが、なにかの間違いか?」

苛立ちを滲ませた厳しい物言いに、光はようやく穂積の言わんとすることを理解した。




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