目覚めは唐突にやって来た。

悪夢から抜け出した先に広がる光景は、ここ数か月の内に見慣れた碌鳴館の執務室だ。眼前のパソコンがスリープ状態になっている。うたた寝をしていた時間は、短くないらしい。

「今日中に終わらせなきゃいけないの、あったよな……」

仕事を再開しようとして、指先の震えに気付く。かじかんだときのように力が入らず、胸元で両手を握りしめた。鼓動が早い。

「こわい夢でも見たのか」
「え……?」

自分以外に人がいるとは思わず、千影はぎょっとして顔を上げた。

応接用のソファに腰かけ、こちらを見つめる人物に、思わず息を詰める。凛と響く低音での呼びかけは、穂積 真昼のものだった。

「かい、ちょう」
「居残りはほどほどにしておけ。他は全員帰ったぞ」
「……今日までのものがあるので、まだかかりそうなんです。施錠は俺がやるので、会長は先に上がってください」

果たしていつからこの部屋にいたのか。乱れた心内を知られるのが怖くて、平静を装い目を逸らした。

今、穂積と二人きりでいるのは危険だ。胸に渦巻く不安を抑えておけない。

パソコンの画面に意識を集中させ、逃げるように仕事を再開した。

軽やかなタイピング音は、現実から遠ざかる千影の足音だ。木崎に切り捨てられた事実も、夢の中で突きつけられた言葉も、目の前にいる穂積の存在も、何もかもを忘れたかった。

「なぜ怯えている」
「っ……!」

先ほどよりも近くから届いた声に、指がもつれた。ディスプレイに張り付けたはずの目が、呆気なく映す対象を変える。

デスクの横に立つ男と視線がぶつかった瞬間、千影は現実逃避すらままならない自分を知った。沈黙を守るはずの唇が開き、ひび割れた声が途切れがちに零れる。

「タケ……武文が、俺をいらないと、言いました」

穂積の黒曜石の双眸には、憐れみと慈しみの意思が瞬いていた。怖がることはない、怯えることはない、そう告げているのが手に取るように分かった。

「もう、そばには、いられない。一緒に、いられないんだ」

後頭部に添えられた手に導かれ、穂積にもたれかかる。震えが続く手で白いブレザーの腰に縋りつけば、優しく髪を梳く感触がした。幼子へするように、頭を撫でられる。

それはまるで木崎の手のように、千影の弱った心を慰めた。

「おれは……武文に捨てられんだ」

――なるほど。それで身代わりが必要になったのか

感情のない低い呟きが、鼓膜に触れた。

千影が異変に気付くと同時に、身体を突き飛ばされる。勢いを殺せずデスクに背中をぶつけるが、痛みは感じなかった。

眼前に立つ男の、常ならざる重苦しい迫力に息を呑む。

「人をふっておいて、随分と都合がいいな。自分が守ってほしいときにだけ、俺によって来るのか」

反射的に否定の言葉を叫ぼうとするものの、声が出ない。首を横に振って否を示すけれど、こちらを見下ろす漆黒の双眸は冷え切ったまま。汚らわしいものを見るような、軽蔑に満ちた目だ。

穂積の腕に安堵を覚えた。与えられる温もりに癒され、導く言葉に光りを見た。渡された想いに、どれほど歓喜したかしれない。

けれど、彼に木崎を見出したことはなかった。これまでは。

木崎から切り捨てられた今、千影は穂積になにを見るのか。幾度となく穂積に守られた身は、救われた心は、なにを求めるのか。

自信がない。

自らの都合で拒んだはずの男へ、身勝手な手を伸ばさない保証は、どこにもなかった。

「保護者が欲しいなら、他を当たれ」

研ぎ澄まされた刃のようなセリフが振り下ろされたとき、千影は今度こそ目を醒ました。

「はっ……はぁっ……くそ」

荒い呼吸音に紛れて、悪態をつく。全身にじっとりとした嫌な汗を感じ、気持ちが悪くてしかたない。

体にまとわりつく寝間着を脱ごうとボタンにかけた指先が、夢の中と同じく震えていることに堪らなくなった。

ベッドの上で蹲まり、喉の奥で悲鳴を絞め殺す。

最悪な朝だった。




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