紺青の微睡。




繁華街にほど近い雑居ビルの一角に、木崎探偵事務所はあった。

まだ遠慮の残る夕方の客引きの声が、日に焼けたブラインドから漏れ入る夕陽で、茜色に染まった室内に届く。

部屋は雑然としており、所長である木崎のデスクをはじめ、応接用とは名ばかりのソファセットや飾り棚の上まで書類が山を成している。そう遠くない未来に雪崩が起きるのは明らかだ。

千影にとっては、見慣れた光景。十七年を過ごした「我が家」である。

――あれ? 俺、どうしてここにいるんだろう

首を傾げて理由を思い出そうとするけれど、なぜだか頭が働かない。霞がかったように思考がぼやけて、まともにものを考えられない。

困ったな、とさして困った意識もなく立ち尽くしていると、徐に人の気配を感じた。

事務所は住居を兼ねており、散らかった仕事場の奥には申し訳程度の生活スペースがある。給湯設備に冷蔵庫を加えただけの簡素な台所から、不穏な音がしている。トン、トトン、と不規則なリズムだ。

――武文?

台所を覗いた千影は、ようやく自分が夢を見ているのだと悟った。

そこにいたのは、幼い千影だった。まだ「ちぃ」と呼ばれていた頃の小さな子どもは、過去の調査資料が詰まった段ボール箱を踏み台代わりに、料理をしていた。まな板の上に寝かせたニンジンを、切ろうとしている。

覚束ない手つきは明らかに不慣れで、今とは比べるべくもない。我がことながら、見ていられないほど危なっかしい。トン、トトン……と音がなるたびに、歪な形に切られたニンジンがまな板に転がる。

――危ないよ

いつ悲鳴が上がっても不思議ではない状況に耐え切れず、つい口を出していた。

千影の声は正しく届いたのだろう。幼い千影は一瞬だけ視線を寄越した。

「もうすぐタケがかえってくるんだ。ごはんの支度をしなくちゃいけないんだよ」

――でも、そんなんじゃ怪我するぞ。武文が心配するだろう?

この頃の木崎は、分かりやすく千影を溺愛していた。指でも切ろうものなら、大騒ぎをするに違いない。

慌てふためく保護者の姿が容易に想像できて、千影は苦笑を零した。

「だから、なにもしないの?」

幼い千影は包丁を置いて、千影に向き直る。澄んだ瞳でまっすぐ見つめられ、思わず息をつめた。

「それでタケの役に立てるの?」

色素の薄い穏やかな茶色の輝きは凪いでいる。蔑みの感情も糾弾の意思もない。ただ、問うている。

それなのに、千影は唇を閉ざしたまま。言葉がなにも出てこない。

対面の双眸に似て非なるそれを見開いて、無言のまま動きを止めた。

答えを返せずにいると、幼い千影は言った。

「あぁ、役に立たないから捨てられたんだ」

残酷な夢だ。千影の深層心理を、千影の口から語らせる。虚飾や建前を取り払った本音を突きつける。

「けど仕方ないよね。だって、調査員でいたいわけじゃないんだもん。タケのそばにいたいだけなんだもん」

調査員の仕事が好きではなかった。密売人を追いつめる興奮や、調査を成し遂げる達成感はあっても、それ以上の想いを持ったことは一度もない。

調査員の仕事が嫌いではなかった。正体を偽ることへの抵抗や、他人を欺く罪悪感を覚えたことは、碌鳴学院に潜入する以前は一度もない。

長い間「調査員」に存在意義を見出してきたにも関わらず、千影にとって「調査員」は好きでも嫌いでもない、ある意味「どうでもいい」ものだった。

ただ、木崎に「やれ」と言われたからやっているに過ぎない。千影にとって本当に重要なのは「調査員」ではなく、木崎 武文という存在なのだ。

「ねぇ、気づいてる? それを依存っていうんだよ」




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