SIDE:仁志

湯気の立ち昇るマグカップを両手に、リビングへ戻る。木目のローテーブルに、わざと軽い音を立てて置くと、膝を抱えてソファに座る少年が我に返ったように顔を上げた。

「ほら、少し飲め」

千影はこくりと頷いて、おずおずとカップに口をつける。ラグの上に直接腰を下ろしながら、仁志はそのどこか幼い仕草を眺めた。

部屋に連れて来たときから比べると、多少は落ち着きを取り戻したように見える。顔は青ざめたままだが、全身の震えはおさまっている。生気の消えた瞳も、紅茶をすするたびに少しずつ感情を取り戻していく。

だが、彼の双眸に広がるのは重苦しい絶望の色だ。

仁志は自分用のコーヒーで唇を湿らすと、思い切って問いかけた。

「なにがあったか、話せるか?」

並木道で目にした千影と木崎のやり取りは、明らかに異様だった。見るからに正気を欠いた千影はもちろん、平静を装った木崎の態度に強い違和感を覚えた。

木崎は千影を溺愛している。用事があるからといって、あの状態の千影を躊躇うことなく仁志に託したのは、不自然極まりない。足早に去る後姿に声をかけても、振り返りもしなかったのだ。

果たして二人になにがあったのか。尋ねずにはいられなかった。

「――れた」
「あ?」
「……俺、宮園家の人間なんだって」

か細い呟きを聞き逃した仁志は、次のセリフにぎょっと目を見開いた。

宮園家とは言うまでもなく、碌鳴学院の経営母体である宮園総合セキュリティの創業者一族だ。幕末の動乱期に歴史の表舞台へ現れる以前から、国の血なまぐさい部分を担ってきたというのは、一部でまことしやかに囁かれる噂である。

「学院長に呼ばれたのって、それか」
「そう。学院長の妹の子どもだって言われた」
「マジか……」

千影の真っ白な横顔から目を逸らしたのは、予想外の話に動揺したからではない。

宮園家は昨年先代が鬼籍に入ったことで、以前より実質の当主であった碌鳴学院学院長兼総理事の宮園 義文が正式にその席についたばかり。先代と義文の険悪な親子関係は周知の事実であり、それは先代の娘――すなわち義文の妹が事故死したことに端を発したとされている。

千影が義文の妹の子であるならば、彼の母親はすでに亡くなっていると気づいたからだ。

「前に」

冷静というよりも、意識的に感情を殺したような平板な声で千影は続けた。

「前に聞いただろ。調査員は家業かって」

穂積との関係で悩む千影に、なんとはなしに尋ねたときのことを思い出す。そんなところだ、と歯切れの悪い曖昧な返事だったと記憶している。

千影はかじかんだ手を温めるようにマグを両手で包んだ。

「武文が探偵事務所をやってるだけで、別に家業じゃないんだ。でも、俺は調査員として育てられたし、それ以外じゃ生きていけない」
「なんだそれ、どういう意味だよ」
「俺は調査員になるために育てられたってこと」

簡潔に説明されても、理解ができない。

上流階級の人間にとって、親の敷いたレールに乗って生きることは珍しくない。幼い頃から後継ぎとして英才教育を施され、将来は約束された地位に就くというのはよくある話だ。

けれど千影が言っているのは、そうではない。

後を継ぐ必要がないのに「調査員として育てられた」というのは不自然だし、調査員でなければ「生きていけない」というのは家業云々を別にしてもおかしい。

千影の語る内容に薄気味悪さを覚えて、仁志は露骨に顔を顰めた。

「……あのさ、その、お前とおっさんってどういう関係なわけ?」
「武文は保護者だよ」
「いや、そうじゃなくってだな」
「言葉のまま。コインロッカーに置き去りにされてた俺を拾ってくれた、保護者」

耳を疑った。今、千影はなんと言っただろうか。脳の処理が追い付かず思考が停止する。

自らが口にしたことの異常性に気付いていないのか、あるいは彼にとって今さら騒ぐことではないのか、千影の表情に変化はない。彫像のように動かない友人の姿に、さらに打ちのめされた。

「武文は拾った子どもを、調査員として育てた。だから俺は、探偵事務所の調査員なんだ」
「……待て。だからって、なんで調査員じゃなきゃ「生きていけない」んだよ」

千影の話が事実だとして「保護者」の木崎に恩を感じるのはわかる。

だからといって、それは千影が調査員である絶対の理由にはならないはず。強制されていたとしても、他に望む道があるなら抗えばいい。今なら宮園家の一員として華やかな世界に進むこともできるのだ。

調査員であることが自身の存在価値とでもいうような口ぶりに、眉間のしわが深くなる。

「だって、俺はそのために育てられたんだ」

今度こそ仁志は言葉を失った。

仁志にとって当然の疑問点が、千影の目には映っていない。同じような言葉を繰り返すばかりで、核心に触れる回答は一つとしてない。

千影との間に、見えない壁があるような錯覚に陥る。

愕然とする仁志に構わず、千影は再び膝頭に顔を埋めた。頼りない声が、静かな室内に波紋を生む。

「それなのに、急になんだよ。宮園に帰れって」

千影は「調査員」に囚われている。

「俺のことはもういらないのかよ……武文」

原因の在り処は、考えるまでもなかった。




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