SIDE:木崎

気付いたときには、職員寮の自室にいた。

走ったわけでもないのに息が上がっている。騒がしい鼓動を宥めるように心臓を押さえかけて、手が震えていることに気が付いた。

これは、千影を切り捨てた手だ。

「はっ……あー、はは……」

乾いた笑いが零れ落ちる。喉の奥でくつくつと感情が砕けるように音が鳴った。

この日が来るのを、どれほど待ち望んでいただろう。この日が来るのを、どれほど恐れていただろう。

四月、事務所を訪れた間垣から、新たな調査を依頼された。渡された資料に記載された「碌鳴学院」の文字に、驚きを隠せなかった。

千影との日々に終わりがあることは知っていた。最初からわかっていた。それがついに来たのだと覚悟を決めて、木崎は動き出した。

千影を碌鳴学院に潜入させたのも、調査よりも学生生活を優先させたのも、仁志や穂積に正体を打ち明けることを許可したのも、なにもかもが今日のため。すべては今日という日のためにある。

千影が心置きなく自分の元を去れるように、本音を殺して冷たくあしらった。そうしなければ、手放せなかったからかもしれない。

それなのに、失敗した。

あらゆる感情に蓋をして、容赦なく突き放さなければいけなかったのに、抱きしめてしまった。いつもと同じ、保護者の顔を向けてしまった。

はじめは上手く行っていたのだ。自身の出生を明かされ取り乱す千影に、寄り添いたい気持ちを理性でねじ伏せていられた。

だが、追いかけて来た子どもを見た瞬間、我慢ができなかった。

あれは千影ではない。ちぃだ。

寂しくても決して弱音を吐かない代わりに、いつも木崎の姿を探している、幼い頃のちぃだった。

泣きそうな瞳で必死に木崎を求める姿が、眼裏に焼き付いて離れない。頼りない指先でしがみつく小さな熱が、いつまでも残っている。

けれどもう、木崎があの子を抱きしめることはないのだろう。泣いている千影を慰めるのは、別の人間だ。そうでなければならない。

千影を調査員にしたのは木崎だ。それ以外の道を与えず、優秀な手駒として育て上げた。

だからこそ、千影を調査員から解放するのは、木崎に許された最後の役目だ。

愛さなければよかったのだろうか。憎しみを抱いたまま、道具のように扱い続けていれば、よかったのだろうか。

「違う……」

答えは明白だ。

憎まなければよかった。はじめから愛していればよかった。

もしも「間違えた」あのときに戻れるのなら。

考えたところで意味はない。

木崎の前にあるのは、愛しい子どもを傷つけた醜い両腕だった。




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