「悪い、遅れた。どこまで話した?」

慣れ親しんだ声に、勢いよく振り返る。

「ノックぐらいしたらどうですか、武先生」
「勘弁してくれ。お前にそう呼ばれるのは気持ち悪い」

不機嫌に眉根を寄せる男は姿こそ保険医だったが、潜入用の仮面を外しているのは明らかだ。傲然とした木崎 武文としての態度に、目を見開く。

「あの、学院長は」
「知ってる。どうして俺やお前が碌鳴に潜入できたと思う? こんなセキュリティ過多なとこ、コネがなけりゃ潜り込めないぞ」
「間垣さんのおかげだと思ってたから。いや、そんなことより、武文……」

先を続けられずに、はくはくと口を開閉させる。

明かされたばかりの情報が、恐ろしくてたまらない。問わずにはいられないのに、答えを知りたくないと思う。

千影の縋るような視線を受け止めたのは、木崎の色を欠いた瞳だった。

「あぁ、聞いたのか。こいつの言った通りだ」
「なんだよ、それ」
「お前は宮園家の人間だってことだよ」

平然と告げられた瞬間、千影の中でなにかが弾けた。

「だからっ、それがどういうことかって聞いてるんだよ!」

込み上げる衝動のまま立ち上がり、木崎の胸倉を掴んで力任せに引き寄せる。真っ向から睨み据えても、相手は眉一つ動かさない。対照的な冷めた態度に、憤りが強くなる。

「言葉のままだろう。これ以上の説明が必要か?」
「当たり前だ! どうして俺が、宮園家の一員なんだ!? 言ったじゃないか、俺は――」

最後まで続けることはできなかった。

手首を捕まれたと思ったときには、ソファへ突き飛ばされていた。革張りのそれは華奢な身をしっかりと受け止めてはくれたが、千影は冷たい地面に叩きつけられたような錯覚に陥った。

最初に手を出したのは千影だ。乱暴な真似をされても文句は言えない。わかっているのに、木崎から受けた初めての拒絶に言葉を失くす。

呆然と見上げた先には、あらゆる感情を削ぎ落したような顔の男がいる。千影のよく知る男が、千影の知らない男としてこちらを見下ろしている。

胸の鼓動が、止まる気がした。

「よさないか!」

宮園の厳しい制止の声に、正気を取り戻す。心臓が正しく動いているかを確かめるべく胸を押さえれば、正しいとは言い難い不穏な振動が掌に伝わった。

「いったいどういうつもりだ。二人とも、少し落ち着きなさい」
「騒がしくして悪かったな。俺がいると話が進みそうにないし、後は任せる」
「は? なにを言っている」

訝しげに眉を寄せる宮園を無視して、木崎は用は済んだとばかりに部屋を出て行こうとする。

「待てよ! まだ話は終わってないだろ!」

呆けている場合ではない。千影は慌てて身を起こすと、白衣の後ろ姿に手を伸ばした。

まさか振り払われるとは、思いもしなかったのだ。

緊迫した空気に、乾いた音が鳴る。退けられた右手が、ジンッと痺れた。

理解ができない。

先ほどのことはなにかの間違い。力加減を誤っただけのこと。そう、自身に言い聞かせ納得させようとしていたのに、二度目の拒絶を前にして、千影の思考は完全に凍りついた。

重厚な造りの木製扉が、重い音を立てて閉まる。木崎は、一度もこちらを見なかった。

「あ……まって、待って、タケ――」
「長谷川くん」

なおも追い縋ろうとする少年を、気遣う声が呼び止める。振り返れば、安心させるような優しい微笑を浮かべた宮園が、目に哀れみを滲ませてこちらを見ていた。

「すまなかった。まさかこれほどきみたちが取り乱すとは思わなかったんだ。なにも聞かされていなかったのかい?」
「しらない。おれは、なにも聞いてない」
「そうか、急な話で驚いただろう」
「……」

彼は静かに席を立つと、厚みのない細い肩にそっと手を置いた。傷ついた心を慰めるぬくもりに、視界がぐらりと揺れる。触れた部分から伝わる想いは、あたたかい。

「わたしは本気だよ。宮園家に帰ってきてほしい。今後のことを考えれば、きみにとっても悪い話ではないはずだ」

だが、宮園から渡された親愛の情が、子どもの凍えた部分を溶かすことはなかった。

「それを決めるのは、あなたじゃない」

容赦なく切り捨て、挨拶もなしに部屋を飛び出す。

最低の態度だ。宮園はなにも悪くないのに、八つ当たりをしてしまった。

普段の千影ならば絶対に取らないような行動を、しかし今は反省すらしていない。否、もはや少年の頭からは、宮園とのやり取りなど抜け落ちている。

数段飛ばしで階段を下りる途中、珍しく足がもつれた。手摺のおかげで事なきを得たが、いっそ転がり落ちた方が早いのではないかと、愚かな発想が脳裏を過った。

無事に一階へ辿り着き辺りを見回せば、昇降口から出て行く男の姿があった。

「待てよ! 待って!」

必死の叫びが届いていないのか。木崎の足は止まらず、服の裾を捕まえたのは煉瓦畳の並木道を随分と進んでからのこと。

「まだなにかあるのか? もう話は――」
「ま、て……まってよ、タケ」
「っ!」

億劫そうに振り返った男は、少年と目を合わせた途端に顔色を変えた。

感情の片鱗すら見せなかった双眸に、一瞬だけ沈痛な光りが宿る。それはすぐに、いつもの保護者の顔で覆い隠されてしまった。

「驚かせて悪かった。痛かったか?」
「そんなの、どうでもいい」
「よくないだろう。お前に怪我がなくてよかった」

長い腕に導かれ、胸の内に抱き込まれる。あやすように背中を撫でられて、ほっと息をついた。甘やかす言葉と慈しむ手に安堵する。

よかった、いつもの木崎だ。先ほどの態度は夢に違いない。

――本当に?

この身を守る、絶対の人だ。木崎が自分を突き放すなどあり得ない。

――本当に?

疑念が拭い切れない。胸の奥で異変を訴える自分がいる。心のままにすべてを委ねてはいけないと、本能が警告していた。

こわい

「ちぃ」
「な、に……」

こわい

「ずっと黙っていてごめんな。お前には帰る場所があるんだよ」
「まって、タケ、まって」

こわい

「だからお前は」

聞きたくない。咄嗟に耳を塞ごうとして、阻まれた。両手首を捕まれて、逃げ場を失う。

こわい

「宮園家へ帰れ」

見開かれた大きな瞳から、絶望が溢れ出す。決定的な一言に呼吸が止まり、閊えた喉が開くと同時に悲鳴を上げた。

「なんで、なんで! なんで、急に! おれは、そうじゃないって! おれはいないって……!」
「光?」

第三者の声が、この場に相応しい少年の名を呼んだ。

反射的に視線を向ければ、尋常ならざる空気を察して戸惑った様子の仁志がいる。友人の金髪頭を目にして、ようやく千影は現状を理解した。

誰に聞かれるともしれない潜入先の屋外で、これ以上続けていい話題ではない。

崩壊寸前の理性と荒れ狂う感情がせめぎ合い、取るべき行動を見失う。どうすればいいのか判断がつかず立ち尽くす。まともな思考が、どうして出来るだろう。

静かに背中を押され、力の抜けた足はふらふらと仁志の元へ千影を運んだ。

「お、おい。どうしたんだよ、光。いったいなにが……って、おっさん?」
「ちょうどいいところに来たな、アキ。悪いけど、部屋まで送ってやってくれ。俺はちょっと用事があるんでな」
「はぁ? あんたこの状況でなに言ってんだよ」
「じゃあ、頼んだぞ」

あっさりとした調子で言うと、木崎は再び千影に背を向けた。遠ざかる足音に気付いても、もはや呼び止める気力もない。

今度こそ木崎は言ったのだ。千影のよく知る、保護者の顔で言ったのだ。

それは共に過ごした十七年に、終わりを告げる言葉だった。




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