「さよなら」のはじまり。
学院長室は本校舎四階に位置する。平時、使われることのない部屋を訪れる機会はなく、足を踏み入れたのは初めてだ。
さして広くもない室内には、良質ではあるものの装飾性を排した実用的な執務机と、革張りのソファセットがあるだけで、碌鳴学院の長たる者の部屋にしてはいささか味気ない。
それでいて殺風景な印象にならないのは、部屋の主のせいだろう。年を経てなお衰えることを知らない美丈夫ぶりだ。
勧められるままにソファに腰を下ろすと、光は緊張した面持ちで口を開いた。
「二年A組の長谷川 光です。お呼びとのことで伺ったのですが、どういったご用件でしょうか」
「目上の者に対して、本題を催促するのはよした方がいい。いくら居心地が悪くても、相手の出方を待つつもりでいなさい」
「……申し訳ありません」
まさか注意を受けるとは思わず、謝罪の言葉が一拍遅れる。
光の困惑に気付いたのか、宮園はおかしそうに口端を緩めた。
「おっと、すまない。年を取ると説教臭くなっていけないね」
「いえ、無礼なことを申しました。ご指導いただきありがとうございます」
光は居住まいを正して、素直に頭を下げた。
宮園の言う通り、こちらから口火を切ったのは失敗だ。突然の呼び出しに動揺して、つい焦ってしまった。
真意の読めない相手と向き合う場合、まずはその意図を探るのがセオリーである。礼儀云々よりも、調査員の鉄則を失念していたことを胸裏で恥じた。
だが、優等生然とした殊勝な態度は、宮園の望むものではなかったらしい。「まいったな」と小さく零すと、柔らかな表情に苦いものを混ぜた。
「どうか気にしないでくれ。無礼だなんて思ってはいないんだ」
「ですが――」
「これからのきみを取り巻く状況を考えたら、つい老婆心が働いてしまってね」
含みを持たせた言い回しに、ますます混乱する。呼び出された理由が、まるで読めない。
宮園は色気のある端正な面から笑みを消すと、真剣な眼差しで光を見据えた。
「さて、長谷川くんに問おう。碌鳴学院の生徒会役員は特別だ。様々な業界から注目を集めている。なぜかわかるか?」
「有能であれば、青田買いをしようとするからと聞きました」
「その通りだ。各企業や家は、欲しいと思った人材に対して積極的な勧誘をする。それは時として、過激と思えるほどに」
「はぁ」
要領を得ない問いかけに、応じる声も曖昧になる。それがいったい、この呼び出しとどう関係するというのか。
内心首を傾げていた光は、宮園の次の発言にぎょっと目を剥いた。
「先の一件で、きみはもう各企業の獲得リストに名を記しただろう。皆、こぞってきみを手に入れようとするはずだ」
「まさか!」
「先の一件」とは、先日の非常事態訓練において光がとった行動のことだ。訓練だからよかったものの、本当のテロ事件であったなら、今頃どうなっていただろう。冷静になれば、マニュアルを無視した危険行為であると解る。
結果として万事うまく行き、生徒たちから賞賛を受けたが、光は自らの行いを正しいとは思っていなかった。もちろん、後悔もしていないが、対外的な評価を受けるとは予想外だ。
「きみの振る舞いは非常に軽率で危険なものだった。けれど、その無茶をやり遂げた実力は誰の目にも魅力的に映っただろう。突発的な事態に対応した機転の良さと行動力や、碌鳴学院に対する忠誠心の篤さは貴重だ」
「俺はただの高校生です」
「相手はそう思ってくれない。このままいけば、近いうちに面倒なことになるのは確実だ。なんの後ろ盾もないきみに対して、強引な手段をとる輩も出るだろう」
宮園が話せば話すほど、光の戸惑いは加速した。
各業界が生徒会役員に注意を向けていることは、以前より友人たちから聞かされていた話だ。光も役員の一人なのだから、評価対象となり得るのは理解していたはず。
だが、実際に己の身に降りかかった今、狼狽えずにはいられない。
光にとってそれは、想い人と同じ世界へ行くための手段でしかなく、どう足掻いても境界を越えられない以上、与えられたところで意味がないのだ。
宮園のいう「面倒なこと」や「強硬な手段」が、なにを指しているかわからないが、学外評価を必要としない光にとっては迷惑でしかない。
膝の上で拳を握ると、相手はふっと目元を和らげて言った。安心させるような優し気な表情に、なぜか不吉な予感を覚える。
「これを回避する手が、一つだけある」
「……なんでしょうか」
先を促すつもりはなかった。この先をきいてはならないと、脳の奥深いところで警鐘が鳴っていた。
けれど光の唇は、まるで引き寄せられるように自然と動いて、宮園の言葉を待っていた。
「宮園家に帰ってきてくれないか」
「帰る……?」
「きみは、私の妹の息子。宮園家の一員なんだよ」
意味がわからなかった。
宮園の紡いだ言葉を、音以上のものに認識するまでに要した時間は、果たしてどれくらいだったのか。
少なくとも、背後で学院長室の扉が開き、一人の男が現れるまで、光は理解できずにいた。
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