「ときどき、あのときの自分にお礼を言いたくなります。会長と出会えたことは、俺にとって本当に特別なんです」

曇りのないまっすぐな瞳に見つめられ、胸のざわめきが激しくなる。それに煽られたように距離を詰め、徐に手を伸ばした。

「ここでその姿を見るとは思わなかった。いいのか、変装を解いて」

戯れのように色素の薄い髪を引っ張ると、相手はくすぐったそうに身動ぎをした。

千影は「長谷川 光」の格好ではなかった。鬘も眼鏡も外したありのままの素顔を見るのは、随分と久しぶりな気がする。電灯のついていない室内では、彼の柔らかな色彩が判然としないのが残念だった。

「この姿で会いたかったんです」

「長谷川 光」としてではなく、自分自身として話したかった。そう続けると、千影は髪を弄んでいた穂積の手を掴まえて、両手で包み込んだ。

「千影?」
「同じ世界に引き込んでやる……この部屋で言ってくれましたよね」

身分の違いを理由に拒絶され、激情のままに吐き出したセリフを思い出す。

あれから二カ月の時が過ぎた。今の彼は碌鳴学院の生徒会役員。以前、本人が認めたように二人の距離は確実に近づいた。もはや別世界の住人とは言えない。

どこか恭しい手つきで穂積の右手を捧げ持つと、千影はそっと自らの額を押し当てた。

「会長はその言葉を実現してくれた。心から、感謝しています」
「……どうした、いきなり」
「いいえ、ずっと思っていました。会長がいたから俺は変れた。いつだって会長のこの手が、俺を引き上げてくれたんです。本当に、本当にありがとう」

穂積は息を呑んだ。

俯いた顔に浮かぶ表情は分からないが、震える両手が抱える想いの深さを教えてくれる。

あれほど頑なに本心を明かすことを拒んでいたのだ。どれほどの勇気をもって告げてくれたのか、想像して余りある。

千影が口にしたのは、穂積が望み続けた本音の一端に相違なかった。

「千影――」
「でも」

呼びかけは、厳しさを帯びた声に押し留められた。

穂積の手を解放すると、千影は一歩分の距離を取る。伏せていた顔を上げ、迷いのない強い視線でこちらを射抜いた。

「会長と同じ世界に立てたのは「長谷川 光」です。俺じゃない」
「どういう意味だ」
「光が俺の一部であるのは間違いありません。けど、あくまで「長谷川 光」は潜入調査のために用意した仮初の役柄です。俺は、千影としての俺の立ち位置は、なにも変わっていない」

容赦のない指摘だった。けれど衝撃の事実ではない。

穂積もどこかで気付いていた。秘密を告白されたときから分かっていた。

境界線を越える手段を得たのは、千影ではなく「長谷川 光」なのだと。

けれど、無意識のうちに目を背けていた。穂積にとって「長谷川 光」は千影であり、彼は生徒会役員としてすぐそばにいたのだ。碌鳴学院のために尽くす姿を前に、二つの名前を分けて考えることなど出来るはずがない。

「長谷川 光」のみならず、千影との間にも障害となる隔たりはないと錯覚してしまった。

「……なら今度は千影を引き込んでやるまでだ」
「止めてください、そういうことじゃないんです」
「なにが言いたい」




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