逃れられぬ想い。
SIDE:穂積
時刻は二十三時。灯りの落ちた碌鳴館の玄関扉が開き、一つの影が大理石の床に伸びた。
先の一件で破壊された電子ロックはすでに修理を終えていて、夜間限定で起動するオートロックの微かな電子音が鳴る。
右手にある応接室の前で立ち止まると、穂積はひっそりと呼気を逃がした。
綾瀬の開いた誕生日会は二時間前に終了した。片づけのために残っていた役員もすでに帰寮している。
無人のはずの碌鳴館に再び足を運んだ理由は、穂積の手の中にあった。
気合を入れるように短く瞑目し、ドアノブを捻る。
応接室に電気は点いていなかった。カーテンが開いたままの窓から、月明かりと街灯の輝きが差し込み、室内の様子を教えてくれる。
穂積は後ろ手に扉を閉めると、部屋の中央に立つ人物の名を口にした。
「千影」
こちらに背を見せていた少年はゆっくりと振り返ると、小さく微笑んだようだった。
「こんな時間に呼び出して、すみません」
「俺が気付かなかったら、どうするつもりだ。直接言うなりケータイに連絡するなり、やりようはいくらでもあっただろう」
回りくどいことをするな、と咎めながら穂積は拳を開いた。
掌の上に乗るのは、銀色のリボン。光からのとんでもない贈り物を飾っていたものだ。
「今夜、二十三時に応接室で――気付いてくれたじゃないですか」
リボンの内側に隠されたメッセージを見つけたとき、どれほど驚いただろう。まさか人目を忍んで呼び出されるなど、思いもしない。
なにしろ光と最後に二人であったのは、あの執務室での出来ごと以来だ。
「誕生日に醤油を贈られる人間は、なかなかいないだろうな」
「まさかあんな騒ぎになるとは思いませんでした」
「嫌味か?」
「違いますって!」
その回答にひっそりと安堵する。彼が祝いの席に毒を仕込むような真似をするわけがないと知っていても、因縁の品を出されては不安にもなる。
穂積の考えが伝わったのか、千影は困ったように苦笑した。
「これでも悩んだんですよ、なにを贈るべきか」
「……悩んだ末の選択なのか」
「だって、あれがなければ俺はここにいない」
思いがけず真剣な声色に、伏せていた目を持ち上げる。
僅かな光りに照らされた千影の端麗な美貌には、大切な宝物を抱くような静かで満ち足りた微笑みが浮かんでいた。
「会長と俺を繋いでくれたのは、醤油ですよ」
「間抜けな縁だな」
「本当に。でも否定できないだろ」
からかうように指摘され、ぐっと言葉に詰まる。
認めるのは癪だが、千影の言う通り醤油は二人にとってきっかけの品に他ならない。
初めて出会ったあのとき、コップ水を浴びせた穂積への報復に彼は醤油瓶を選んだ。
もしも千影がやり返さずにいたら。数多の生徒と同じく生徒会長の横暴に耐えていたら。穂積がただの転校生を気に掛けることはなかっただろう。
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