◇
釈然としない思いから、つい疑うような口調になる。
「俺も碌鳴学院の生徒だぞ。訓練対象に事前告知していたら意味がない」
穂積の返答は答えになっているようで、なっていない。不満を口にするより早く、察した男が言を次いだ。
「訓練の存在は知っていた。昔、箝口令を無視した男に聞かされたからな」
「じゃあ――」
「誤解するな。詳細はなにも知らない、お前たちと同じだ」
「知ってたんなら、んなツラになるわけねぇしな」
そう言って、仁志は自分の頬を手の甲で叩いてみせた。
穂積の左頬は湿布で覆われていた。彼の秀麗な顔には、まるで似合わない。しかも、その不似合いなものの下には、さらに似つかわしくない殴打の痕跡があるのだ。
昨日、体育館で目にした映像を思い出し、光はきつく拳を握った。
「おかげで確信を持てた」
「わざと殴られたんですか!?」
「反応を見るには、一番てっとり早い」
「だからって、なんで……」
その先を口にする意味はなかった。
穂積は碌鳴学院の生徒会長だ。すべての生徒の頂点に立つということは、すべての生徒を守るということ。常識的に考えれば、十代の一生徒に課すには過ぎた役割だ。
けれど光はもう理解している。この世界を「常識」で測る愚かさを、この世界だけの「常識」を、受け入れている。
受け入れたからこそ、今ここにいるのだ。
だからと言って、穂積の負傷を「必要な犠牲」と割り切ることは出来なかった。
「……会長はもう少し、自分の影響力を知るべきだ」
「なにを言っている。俺が理解していないわけがないだろう」
「そう返されると思ってました」
どうせ「HOZUMIの跡取り」や「碌鳴学院生徒会会長」としての影響力しか、理解していないくせに。
訝しげな表情の穂積に、光はため息をついた。
ステージ上では、男の演説が続いていた。
四十代半ばと思しき容貌は端正で、若かりし頃の色男ぶりは想像に難くない。引き締まった体躯に品のあるダークグレーのスーツを身に付けており、悠然とした美しい立ち姿は他を従える静かな気迫に満ちている。
「……うちにも校長っていたんだな」
「正しくは、学院長兼総理事だ」
思わず零せば、すかさず穂積の訂正が入った。
「宮園総合セキュリティの代表取締役社長でもあるからな。碌鳴には滅多に顔を見せない」
「入学式と卒業式くらいだよな、あの人が現れるのって。俺も久しぶりに見たわ」
超レアキャラ、と仁志が嘯く。
光は本校舎四階にある学院長室の存在を思い出した。使用されている様子はなかったが、どうやら本当に無用の長物らしい。
行事にすら姿を見せないのだから、生徒たちからの信任はないものと思いきや、座席側に並ぶ真剣な表情を見れば一概には言えないのだと気付く。他を惹きつける引力のようなものを感じ、光もまた黙して耳を傾けた。
『有事に際して自らに求められる行動は、どのようなものなのか。今回それを実行に移せたのか。今一度、振り返ってみてください。そして心に問うといい、未来の自分は「将」であるのか「駒」であるのか。今回の一件が、皆さんにとって訓練以上のものになることを期待しています』
そう言って学院長――宮園 義文は言葉を締めた。
司会の綾瀬の号令に従い、生徒たちが揃って礼をする。舞台袖の光も、自然と頭を下げていた。
ふと思い至ったのは、ある一つの可能性だ。
「今さらだけどさ、数学の宮園先生って……」
「学院長の息子だ。ほんとに今さらだな。お前、知らなかったのかよ」
驚いたように言われ、光は苦く笑った。調査対象以外への興味が薄いのは、己の悪癖だろう。
数学教師とよく似た男は、光たちとは反対側の舞台袖へはけた。
入れ替わりで穂積がステージへ出て行く。頬の湿布にざわめきが起こるが、彼が「静粛に」と告げるだけで生徒たちの動揺は治まった。
穂積の担当は、この件に関する箝口令と今後の事務連絡である。訓練を機能させるために、決して外部に漏らしてはならないときつく念を押す。
打ち合わせにない発言が飛び出したのは、すべての連絡事項を話し終えた後。
『――最後に諸君に問おう。今回の一件で、目覚ましい活躍を見せた者がいる。それは誰か』
光はぎょっと目を剥いた。驚愕のあまり暫時、思考が停止する。
座席側が再びざわつき始めた。
『多くの人間の助力があったのは間違いない。だが、本訓練は今年で七回目。救助チームではなく、生徒により学院が解放されたのは史上初だ』
「な、に……なに言ってるんだ、あの人?」
侵入者による学院占拠は、あくまで非常事態訓練だ。光の行動が過去にない結果を生んだとしても、本来の趣旨からは大きく逸れる。
後悔こそないが、自分の選択が正しかったと自惚れるほど愚かではない。釘を刺すならば兎も角、賞賛を受ける理由が分からなかった。
答えを得たのは、次のときである。
『諸君は生徒会役員になにを求める』
この一言に、生徒たちが息を呑むのが分かった。空気が張りつめ、辺りが奇妙な緊張感で包まれる。
『圧倒的な家柄か? 約束された社会的地位か? 華やかな外見か? そのすべてを求めるのもいいだろう』
家柄、地位、容姿。どれも無下には出来ない重要な要素であり、そのどれもを光は有していなかった。
十月のあの日、耳に届いたまばらな拍手が蘇る。光の副会長就任を認めるのは極一部の者だけで、大多数の生徒が冷たい眼差しを向けていた。
大仰な家名や有力な後ろ盾もなく、麗しい見目もないのなら仕方ない。むしろ、僅かでも応援してくれる人がいることに驚き感謝した。
『けれど諸君はもはや気付いたはずだ。それらは決して本質ではないと。それらすべてを欠いたとしても、ある一つの要素に代えられないと理解したはずだ』
光に出来るのは、そのたった少しの支持者のために、彼らが在籍する碌鳴学院のために、出来る限りの努力をすること。頭を使い、身体を動かし、己の持つただ一つの力でこの学び舎を支えること。
『生徒会役員は家柄の優れた者がなるのではない、ましてや顔のいい者がなるものでもない。生徒会役員になるべきは、実力のある者だ』
凛とした低音がはっきりと断言した瞬間、光は一歩を踏み出していた。
ステージライトの強い輝きに晒されて、光の影が深く濃く足元に伸びる。床の上にくっきりと描かれたシルエットは、まるで存在を主張するかのようだ。
確かな輪郭を持つ影と共に演説台へ歩み寄ると、穂積が当たり前のように場を譲る。
マイクの前に立ち、目線を上げて気が付いた。
自分は覚悟を決めたつもりになっていた。新生徒会副会長に選ばれて、認めてくれた数えるばかりの人のために頑張ろうと決意した。
けれどそれでは不十分だった。すべての生徒を背負うだけの覚悟を、持たなければならなかった。
照明の落ちた薄暗い座席側にいるのは、僅か数人ではない。碌鳴学院で学ぶすべての生徒がいるのだ。
口端が引きつり、膝が震える。早鐘を打つ心臓は、緊張と恐怖を叫んでいる。
口を開いた先にあるのは、きっと予想通りの未来だろう。光が望んだ未来だろう。
受け入れてしまえば、もう逃げられない。もう、逃げない。
目には見えない生徒たちの意思を受け止めるように、光はぐっと足を踏みしめた。
艶やかな薄い唇を開き、碌鳴学院の生徒へ向けて初めてその肩書を名乗る。
『新生徒会副会長の、長谷川 光です』
果たして訪れたのは、予想通り。昨日を上回る拍手と歓声に、空気が震撼する。
この日の出来事が「自己紹介だけで喝采を浴びた伝説の副会長」として、後々まで語られることになるのだが、それはまた別の話である。
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