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SIDE:歌音
本校舎には静寂が落ちていた。授業中の静けさとは異なり、人の気配を感じない完全な沈黙は、見慣れた学び舎を見知らぬ場所のように思わせる。
逸見の合図で隠し通路から出ると、歌音は閑散とした廊下を見回した。
「全員、体育館に連れて行かれたようだね」
「はい。校舎には哨戒の者が何名か残っているだけでしょう」
いかがされますか? と指示を仰がれ、歌音の愛らしい顔には険しい表情が浮かんだ。
緊急メールが配信されたとき、歌音は逸見と共に本校舎の一階にいた。逸見の判断で咄嗟に隠し通路に身を潜めたものの、犯人側の目的が自分たちでないなら隠れている意味はない。訓練通り大人しく投降して、人質となった他の生徒たちを励ますべきだろう。
「暁の陽炎という組織名は聞いたことがありません。私たちを探している様子もありませんし、恐らくファミリーとは別件でしょう」
「うん、ぼくもそう思うよ。だから、ここは体育館へ……」
「ですが、万が一ということもあります。安全のため、隠し通路から脱出を図るべきです」
歌音の答えが分かっていたのか、逸見に先回りをされ言葉が途切れる。出て来たばかりの隠し通路へ戻されかけて、慌てて踏みとどまった。
「逸見っ」
「私にはあなたを守る義務がある。武装集団の元へ連れて行けるわけがない」
フルリム眼鏡の内側に並ぶ切れ長の双眸には、強い意思が宿っている。歌音の身だけが大切で、それ以外に考慮すべき事柄は何一つないと主張している。
注がれる視線に盲目的なまでの忠誠心を見て取って、歌音は夏以降消えていた息苦しさが蘇るのを感じた。
ぐいぐいと通路へ押し込む男の手に、自分のそれを重ねる。ぎゅっと力を込めれば、相手の動きが止まった。
「歌音様?」
「……やっぱり、義務だけなのかな」
「っ!」
「ぼくはやっぱり、きみの「主人」でしかない?」
イタリア三指に数えられた巨大ファミリー・マルティーニ。首領の一人息子として生まれた歌音と、護衛役として付けられた側近の逸見。二人の関係性は、あの夏の日を境に変化したはず。
それでも時折、二人は戻ってしまうのだ。穢れのない聖者のような「主人」と、忠誠だけを捧げた「側近」に。
逸見は我に返ったように目を瞠ると、やがてゆっくりと嘆息した。歌音の額に自分のものを突き合わせ、重ねられた小さな手をしっかりと握り込む。隙間を厭うように指先が深く絡み合った。
「……悪い。嫌な気持ちにさせた」
「ぼくも、イヤな言い方をしてごめんなさい」
後悔の滲む謝罪を受け入れ、自由な片手を伸ばして抱きしめ返す。制服越しでも分かる鍛え抜かれた身体にすべてを委ねると、腰に回った腕の強さが増した。
「だが、俺の意見は変わらない。脱出するべきだ」
「言うと思った」
落ち込んでいたのも束の間、強い口調で告げられたセリフに吹き出してしまった。
「側近」の仮面を捨てたと言っても、逸見の優先順位は変わらない。「主人」としての命令が通じなくなった分、歌音にとっては不利な状況だ。
くすくすと笑みを零しながら、歌音は逸見の胸を押して距離を取った。
「きっと、きみとぼくの意見は平行線のままだ。でもね、ぼくは生徒会役員できみは補佐委員長なんだよ。逸見」
「上に立つ人間は守られるのも仕事だ」
「うん、そうだね。そして守るのも仕事だ」
なにか間違ったことを言っているかな? と続ければ、男の顔に苦虫を噛み潰したような表情が広がる。ふいと目を逸らし、忌々しげに吐き出した。
「平行線のままだ、なんて思っていないだろう。本当は」
「思ってるよ。でも同時に、逸見なら許してくれるって信じてる」
歌音は微笑みと共に言い切った。
人質となった生徒たちは「穂積 真昼」という名の強力な盾に守られている。今さら、アダムス性を名乗る歌音が出て行ったところで事態は変わらない。
それでも歌音は生徒会役員だ。有事の際には、生徒たちを守る責務がある。与えられた役目を放棄して、自己保身に走るつもりは露ほどもなかった。
柔らかな微笑の裏に堅固な意思を感じ取ったのか、逸見が諦めの吐息を吐き出した。薄い唇が「わかった」と呟く――その前に、彼は歌音の口を掌で塞ぐと隠し通路の中へと引き込んだ。
「っ……!」
驚いたのは一瞬。耳に届いた足音に、歌音は事態を理解した。
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