◇
神戸の飾らない心は、美点と称するに足る長所。
光を相手に嫉妬心を募らせる必要はどこにもなかった。
「お前はかっこいいよ、神戸」
瞠られたままの猫目を見据えて、光は柔らかく微笑んだ。
神戸はしばらく動かずにいたが、やがて大きく息を吐き出すと勢いよく地面から立ち上がった。
ズボンについた汚れを払いつつ、小さく呟く。
「……長谷川って、けっこう恥ずかしいヤツだったんだな」
「おい」
「でも、ありがとう」
はっきりと聞こえたお礼に、抗議のセリフが喉につかえる。
居住まいを正して光へ向き直った神戸の表情は、憑き物が落ちたようにすっきりとしている。
晴れ晴れとした笑顔を見せて、彼は言った。
「俺、小鳥のところに行って来る。で、言うべきことを言うよ」
そのままくるりと背を向けると、まっすぐに鳳桜館への道を走り出した。
迷いなく駆けて行く姿を見送った光は、ふっと苦笑を漏らした。
「俺も鳳桜館に行くんだけど」
これから両校の生徒会で、各部活動を見学する予定だ。
鳳桜館では他の役員たちが、自分たちの到着を待ち構えているはず。
返事も聞かずに走り出した様子から察するに、おそらく神戸の頭は小鳥のことでいっぱいに違いない。
夢中で押し開けた扉の先に、婚約者以外の姿を見つけて慌てふためく未来が目に浮かぶ。
フォローのためにも早く鳳桜館へ向かおう。
爆走していった神戸の後を追って、光は煉瓦道を歩き出した。
「逃げてどうする、か」
ぽつりと唇から零れ落ちたのは、先ほど口にしたばかりの言葉だ。
神戸を諭すために言ったものの、それは光自身にも当てはまる。
穂積の告白を曖昧な態度で拒絶し傷つけた上に、今まで与えられて来た彼の優しさに、何一つ報いることなく逃げ出したのだ。
嘘を貫き通す覚悟もなく、真実を打ち明ける勇気も持たない臆病な自分が腹立たしい。
与えられることに慣れ切り、相手を慮りもせず我儘な振る舞いをしていた厚顔さに虫唾が走る。
――確かに、今のお前ではあいつの隣に立てないな。――相応しくない
昨夜、篠森に浴びせられた言葉が蘇る。
自分ばかりを憐れむ卑怯な人間が、どうして穂積に相応しいだろう。
「でも……」
千影は言ったばかりだ。
欠点ばかりに目を奪われるべきではない、と。
自分自身に絶望して、このまま逃げ続けたところで何になる。
穂積を傷つけたことは怖ろしいが、傷つけたままでいることの方がもっと怖ろしい。
恋した人を苦しめ続けて、正気でいられるわけがないのだ。
千影は絶対に穂積の恋心を受け入れないし、自らの恋心を明かしはしない。
それでも、言うべき言葉はあるはずだ。
言葉を尽くして伝えるべき、本当の気持ちがあるはずだ。
千影は逃げずに向き合わなければいけない。
穂積の目を見て、心からの想いを渡すのだ。
言えない言葉はたったの一つ。
――あなたが好きです
ただ、それだけなのだから。
光は背筋を伸ばすと、力強い足取りで鳳桜館への道を急いだ。
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