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にまっと笑って見せた渡井のセリフを最後に、光は回想から抜け出した。
あのとき、自分は何と返すべきだったのだろう。
笑顔で頷くことなど出来るわけもなく、かと言って上手い切り返しをすることも出来なかった。
光の異変に気付いた渡井が、自然な調子で話を変えてくれなければ、いつまででも黙っていたに違いない。
「俺の誕生日なんて、裕也先生に付き纏われて困ったよ」と、冗談めかして笑う相手に、思わず安堵の息を漏らしたくらいだ。
「情けない……」
一人口の中で呟いて、足元に落ちていた目を持ち上げた。
並木道の先に佇む碌鳴館は、静かに光の到着を待っている。
逃げ出したい気持ちをどうにか宥め、重厚な扉に手をかけた。
現役員からの提案で、今日は新役員全員が授業に参加している。
生徒会と一般生徒の関係が断絶するのを回避するため、時間に余裕がある内はクラスに顔を出すようにと指示されたのだ。
光は昼休みで戻って来たが、他の役員はまだ校舎らしい。
新役員執務室は無人だった。
一足先に仕事を始めようとパソコンを立ち上げ、綾瀬から預かっていた書類を確認する。
部屋にノックの音が響いたのは、仕事に集中しかけたときだ。
短く応じて書面から顔を上げた光は、現れた男に息を詰めた。
治まったはずの動悸がぶり返すのが分かり、渡井の言葉が耳奥でリフレインする。
「なんだ、長谷川だけか」
「はい。仁志はそっちですか?」
「持ち帰った書類を寮に忘れて、今は取りに行っている。アレが俺の後任と思うと、お前に期待するしかないな」
嘯くように言うと、穂積は持っていた書類束を光に差し出した。
「綾瀬からだ。上の二つは今週末までだが、下は明日までに提出だ」
「分かりました。わざわざすみません、俺が取りに行くべきでした」
いつもと変わらないのは表面上だけで、光の心内は大きく波立っている。
仕入れたばかりの彼の個人情報が意識されて、今にも「後悔しない」行動を取りそうになる。
想い人の誕生日を祝いたい、ささやかでも祝福の心を示したい。
きっと穂積は光の言葉を受け入れて、優しく微笑んでくれるに違いない。
だが、自分にその資格がないこともよく分かっていた。
本来ならば、千影と穂積が出逢うことはなかった。
千影の生きる世界は、紺青色の影の中。
「長谷川 光」という仮初の役柄によって、この場に存在してはいるものの、あくまで夢幻の儚い存在でしかない。
千影の言葉も温度も恋情も、本当の意味で穂積に届くことはあり得ない。
日の下を歩く穂積とは、決して交わることのない別世界の住人なのだから。
この世界において、千影は存在しない存在だ。
例え想いを打ち明けたとして、恋の結末はただ一つ。
別れが確定されているならば、胸に抱える真実を渡すべきではない。
やがて迎える恋の終わりに、どうして耐えられる自信があるだろう。
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