本懐と本音。
SIDE:木崎
電話口の相手に気付かれぬよう、そっと吐息を逃がした。
耳に当てた小さな無機物からは、今なお愛しい子どもの声が聞こえている。
普段よりも硬い口調で語られる内容に、ほとんど条件反射で応答した。
意味を咀嚼しようともせず、ただ唇が動くままに優しく実のないセリフを返す。
木崎の意識は、与えられたばかりの衝撃から抜け出せずにいたのだ。
「彼」に委ねたあの瞬間、すべてを覚悟したつもりだった。
ついにこの日が来たのかと、寂寥感と安堵感を胸にあの場を去った。
けれど今、木崎は動揺せずにはいられない。
子どもの変化を受け入れた気になっていただけで、実は少しも分かっていなかったようだ。
本人から告げられたことで、希薄だった現実味が急速に増すのを感じた。
『武文……?』
不意に窺うように名を呼ばれ、木崎は我に返った。
『本当に、いいのか?』
不安の滲む問いかけに、自身の不誠実な態度に気付かれたのではと焦る。
胸裏で渦巻く複雑な感情を押し殺し、無理やり平時を取り繕った。
「当たり前だろう。お前が決めたことなら、どんな結果になっても構わない」
『あ……』
「何度も同じことを言わせるなんて、千影くんの優秀な記憶力はどこに行ったんだ?」
自分でも驚くほど自然に滑り出た言葉には、努力の痕跡すら見当たらない。
愛しい子どもとの間に、調査員としてのスキルを持ち込むことを苦く思いながら、木崎はからかいの調子で続けた。
「お前が心配するのは、明日のことだろ。アキはいいとしても、他のヤツらはどう思うか分からないんだ」
『気が滅入ること言うなよな……』
「冗談だ。信じると決めたのなら、お前はありのままの気持ちを言えばいい」
消沈した相手を励ますものの、それにどれだけの効果があるかは分からない。
木崎に出来るのは許可を出すことだけで、実際に行動を起こすのは千影なのだ。
「おやすみ」の挨拶で通話を終えると、木崎は今度こそ誰に憚ることなく嘆息した。
抑え付けていた情けない心を解放するように、深く長く想いを逃がす。
木崎にとって千影は、掛け替えのない唯一絶対の存在だ。
誰よりも近くで守り、育て、慈しんで来た。
この先の人生で彼よりも大切な相手が出来る可能性は、万が一にもあり得ない。
自身の罪と理解していても、愛おしい子どもであることに変わりはないのだ。
だからこそ、一日でも早くそのときが訪れることを願い続けていた。
寄り辺がない孤独から、調査員という呪縛から、自分という罪人から、解き放たれるそのときを。
木崎は電話口で告げられたことを思い返した。
穂積 真昼にすべてを話したい。
自らの眼で見極めた信頼できる者たちにも、事情を打ち明けたい。
千影はそう言ったのだ。
調査員が潜入先で正体を明かすなど、本来ならば言語道断。
だが、そのタブーこそ木崎の本懐を遂げるには不可欠なことだった。
時は満ちた。
後は自分が彼の手を放すだけだ。
自室の書斎からリビングに出ると、そこには一人の男がいた。
ソファに腰かけていた宮園 一貴は、こちらに気付くと即座に立ち上がる。
「電話、終わったんですね」
「あぁ。待たせて悪かったな、行くか」
手にしていたコートを羽織り、先に玄関へ向かう。
シューズクローゼットから普段履きとは違う、上等の一足を選んで爪先を入れる。
手渡された靴べらを使いながら、木崎は軽い調子で背後の男へ言葉を投げた。
「今日は俺が運転してやろうか」
「で、帰りは俺に任せるんでしょう。いいですよ、貴方の足にされるのには慣れました」
「俺だって悪いとは思ってるんだぞ。お前、ここしばらく恋人と過ごせてねぇだろ」
「は?」
「学院ホストとか言ったか。ほら、渡ら――」
「当主がお待ちです。急ぎましょう」
硬い声音で遮ると、宮園は木崎の背中を押して強引に部屋を出た。
追及をかわすため足早にエレベーターホールへ向かう後ろ姿に、対照的な歩調でついて行く。
「そう焦るなって。お前と違ってあいつの恋人は仕事だぞ? 誰に文句を言われるわけでもないんだ。待たせとけ待たせとけ」
軽口に混ぜた本音に、果たして宮園は気付いただろうか。
不自然なほどゆっくりと踏み出される足は、鉛のように重い。
吐き出し切れず胸に蟠る感情が枷となり、前に進むことを厭わせている。
「待たせとけばいいんだよ……待たせとけば」
待たせた分だけ、木崎は愛しい子どもと繋がっていられるのだから。
後は自分が、手を放すだけ。
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