◇
「ここまで来てそれはないだろう」
「ここまでも何も事実です」
冷静に切り返せば、穂積の眉間のしわがより深くなった。
今の今までされるがままだったのに、手のひらを返されたのだから当然だ。
色めいた空気は跡形もなく消え失せ、殺伐とした気配すら漂い始める。
抱き締める腕から逃れようともがく千影と、させまいとする穂積。
交わったままの視線は、恋情ではなく闘志の火花を散らしていた。
「さっきまで大人しく抱かれていたのは誰だ」
「予想もしない展開に驚いて動けなかっただけです」
「その割には、俺に縋りついて来ただろう」
「会長、よっぽど疲れているんですね。現実と妄想を混同しないで下さい」
「ならお前は、好きでもない相手に告白されて泣くのか」
痛いところを突かれて、反論に詰まった。
穂積に想いを告げられて、涙腺が崩壊したのは否定のしようがない。
自ら彼の背に手を回し、子どものように泣いてしまったのだ。
何とも思っていない輩に告白されて、誰があんな反応をすると言うのか。
決定的な一撃を受けても、しかし千影は退かなかった。
必死に言葉を探し、無理やり喉からひねり出す。
「会長に正体を暴いて欲しかっただけです。好きだとか、そういう感情は……誤解です」
「誤解、ね」
小さく繰り返された呟きの重さに、ドキリとする。
穂積の双眸を別の色が過った気がして、違和感を覚えた。
だが、その正体を確かめるより早く、黒曜石の瞳に傲然とした輝きが蘇った。
「意地を張って何になる。分かり切った事実を否定されても、信じられるわけがないだろう」
「自信過剰です。会長がどう思ったとしても、それこそ事実は揺らぎません」
「お前が俺に惚れている事実がな」
反射的に嫌味を口にすれば、自信に満ち溢れた表情で断言される。
先ほど感じた些細な違和感は、常と変らぬ穂積の態度によって意識から追い出された。
何度言っても聞く耳を持たない相手に、苛立ちにも似た焦燥が募る。
話が通じる気配は微塵もなくて、自然と語気が荒くなった。
「俺の気持ちを決めつけるのは、やめてもらえませんか」
「正直にならないお前が悪い」
「だから、いつ俺が会長を好きだって言いましたか」
「聞いてやるから、早く言え」
「なら言わせてみせてください!」
千影が己の過ちに気付いたのは、言い放った瞬間。
「しまった」と思っても、もう遅い。
恐る恐る窺った先では、魔王染みた笑みが待っていた。
「なるほど、それがお前の望みか」
「いや、あの、今のは売り言葉に買い言葉というか――」
「いいだろう。飽きるほど、言わせてやる」
男の挑発的な眼差しは、言い訳を許さない。
硬直した少年の手を当然のように引き寄せると、その掌に音を立てて口付けた。
「覚悟しておけ」
柔らかな唇の感触と、熱く濡れた吐息。
気迫に満ちた宣戦布告と、勝利しか知らぬ支配者の双眸。
与えられたすべてのものが、千影の決意を突き崩そうとしていた。
負けるわけには、いかないと言うのに。
――あなたが好きです。
今にも本音が、零れ出そうだった。
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