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「嫌なのか」
「嫌とか、そういう話ではなくて」
「好きな相手には触れていたい」
ストレートな物言いに、自ら呼び寄せた展開にも関わらず心臓が飛び跳ねた。
決して、甘い空気を期待しての発言ではなかった。
木崎の承諾を取るまでの、時間稼ぎと言っても過言ではない。
事情を明かせないことで穂積が痛みを覚えるならば、話を逸らしてしまえばいいと思っただけなのだ。
それがまさか、自分の首を絞めはめになるとは。
完全に思考が切り替わったのか、男は口元に笑みを刷き、腕に込める力を強くした。
頬にあった手からも怯えが消えて、少年の穏やかな茶色の髪を優しく梳いて行く。
そのまま指先は項へと到達し、大きな掌が首裏を包むように掴んだ。
二人の間にあった隙間は今やぴったりと埋められて、至近距離から瞳の奥を覗かれる。
「お前は違うのか? 千影」
熱の籠った目で甘く名を囁かれ、千影はぎくりと身を竦ませた。
引力に従うように、心の底に秘めた想いが浮上するのを感じたせいだ。
危険を叫ぶ警告音が、脳内に響き渡る。
千影はすぐさま逃走しようとした。
だが、逃げようにも身体が少しも動かない。
穂積の胸に置いた両手は、押し返しているのか引き寄せているのか曖昧で、速度を上げた相手の鼓動を感じ取る。
顔を背けることも、結んだ視線を断ち切ることも、何一つ思うようには行かなくて、焦燥感が募るばかりだ。
自分自身に裏切られ狼狽える間にも、黒曜石の双眸は接近を続けている。
ただでさえ僅かしかない距離を、ゼロにしようというのだろうか。
考えた途端、思考を掠めて行った記憶があった。
千影を混沌に突き落とした、甘く苦い夏の夜。
千影の理性を吹き飛ばした、灼熱の体温と激しい衝撃。
パンドラの箱から飛び出した記憶が、瞬く間に脳裏で蘇った。
「……駄目だ」
「千影?」
唇から転がり出た呟きに、穂積の動きが停止する。
訝しげに眉を寄せる相手の身体を、今度は確かに押し返す。
千影は流されかけていたときとは異なる、意思の光りを灯した目で穂積を見上げた。
「俺がいつ、好きだって言いましたか?」
「…………おい」
「俺、一度も言っていませんよ。会長のことが好きだなんて」
はっきりと告げるや、眼前の秀麗な面が盛大に顰められた。
不満を隠そうともしない険しい表情で、糾弾の眼差しを注がれる。
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