言えない言葉。
静かな雨音が耳に触れた。
今朝から雲行きが怪しかったが、とうとう降り出したらしい。
窓辺に寄った千影は、ぼんやりとした面持ちで秋時雨に濡れる景色を眺めていた。
まるで、自分に代わり涙してくれているようだ。
あの林の中で、千影は胸に抱く想いのままに、小さな嗚咽を零しながら泣き続けた。
己を抱きしめる両腕は決して緩むことがなく、そのぬくもりに感じた幸せは今もまだ残っている。
心の昂ぶりは未だ衰えず、涙が止まったのが不思議なくらいだ。
腫れぼったい眼をこすりながら、千影はゆっくりと室内を顧みた。
目に映るのは自分の部屋ではなかった。
新副会長用の部屋と間取りは同じでも、黒と白ですっきりとまとめられた内装は、想い人の部屋である。
嗚咽が落ち着いた頃、穂積はこの部屋まで千影を抱きかかえて来たのだ。
足袋の足では危険だからと押し切られ、ろくな抵抗も出来なかった。
混乱していたのだから仕方がないが、危険極まりない行為であったのは間違いない。
生徒たちに目撃でもされれば、大問題だった。
外された鬘を被り直したので、穂積が横抱きにするのは転校生だと気付かれたかもしれないのだ。
そうなれば、新副会長としての足場はさらに不安定なものになっていただろう。
誰にも遭遇しなかったのは、奇跡と言う他ない。
千影はリビングのソファに腰を下ろすと、もう一度目じりに触れた。
すると、身に着けたシャツの袖口から、ふわりと清潔感のある香りが漂った。
つい先ほどまで、己を包んでいた香りに、頬が熱を持つ。
千影は舞台衣装ではなく、穂積の私服に袖を通していた。
玄関に繋がる扉が開いたのは、そのときである。
私服姿の穂積は、千影に目を留めると一瞬だけ動きを止めた。
「……やはり、大きかったな」
小さく呟かれたセリフに、千影の熱は一気に下がった。
千影と穂積の体格差は、言うまでもない。
借りた服は当然ながら大きくて、シャツは袖をまくっているし、ズボンは二回も裾を折っている。
厚みのない華奢な身体のせいで、襟ぐりもだらしなく開いていた。
「あの、すみません。俺、自分の部屋に戻って着替えて来ます」
穂積の匂いに浮かれている場合ではなかった。
見っともない格好だと気付かないなど、どうかしている。
熱に融けた思考回路が、なかなか復活しない事実を苦く思いながら、千影は逃げるように席を立った。
だが、扉へ向かう前に肩を掴まれ、引き止められてしまう。
再びソファに座った千影は、困惑の眼で彼を見上げた。
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