「教えてくれ、俺はお前を何と呼べばいい」

腕の拘束が解かれ、代わりに両手で頬を包み込まれる。

灼熱の指先に誘われ、千影は降り注ぐ視線を間近で受け止めた。

絶望とは似ても似つかぬ鮮やかな色彩は、果たして「誰を」見ているだろう。

黒曜石に在るのは、「誰」か。

ただ一つの解を認めたとき、激しい飢餓感が全身を貫いた。

唇が、動き出す。

「――かげ、千影」
「っ……!」
「俺の名前は、千影だ」

いつからなんて、覚えていない。

ただ、ずっと前から願っていた。

祈っていた。

叶わぬ夢と知りつつも、捨てきれなかった。

穂積に正体を暴いて欲しい。

自発的に明かすのではない。

偶発的に露見するのではない。

彼の意思で求め、探し、暴いてくれる日を夢見ていたのだ。

騙していたと知ったら、穂積はどう思うだろう。

怒るだろうか、軽蔑するだろうか、傷つくだろうか。

不安になっていられたのは、最初のうちだけ。

時を経るにつれ我儘な欲望は肥大して行き、恋心を自覚するや恐怖などどこかへ消えた。

見つけて欲しいと、ただそれだけを想って来た。

だから早く。

もうこれ以上は待てそうにないから、早く。

よんでくれ。

「千影」

涙が零れた。

穂積の唇の動きがはっきりと分かり、甘い音色が大気を揺らす。

耳殻を滑り、鼓膜を震わせ、脳に沁み込む。

心が、歓喜する。

「あ……」

それは己の名前。

これまで聞いたもっとも美しい発音で紡がれた、己の名前。

「千影、千影、千影」

まるで宝石のように、月光のように、太陽のように。

繰り返される己の名前は、穂積によって眩い光りを帯びて行く。

輝きに刺された千影の瞳からは絶え間なく雫が溢れ、頬を包む掌を濡らした。

見つめ合う男の顔が滲み、明瞭となり、また滲み、それがひどくもどかしい。

肩が震えて喉が引きつり、幼子のような嗚咽が漏れる。

羞恥を感じる余裕もなくて、与えられるままでいれば、穂積はそっと一方の手を千影の髪へと伸ばした。

潜り込んだ指先が探るように動き、綾瀬を真似た甘栗色の鬘が取り払われる。

露わになった千影の穏やかなブラウンの髪を、穂積は壊れ物でも扱うかのように優しく梳いた。

コンタクトで黒いままの虹彩を惜しむ様に、涙に濡れる目じりを摩り。

「千影」
「っ、や……」
「千影、千影」

名前を呼ぶ。

千影は死にそうな心地になった。

「千影」だけを求める穂積に血を流したのは、つい先ほどだと言うのに、今や別の理由で息が出来ない。

胸が引き絞られるような痛みは甘美で、胸の鼓動は喜びに啼いている。

急激な変化に返事すら出来ずにいると、穂積の顔に表情が生まれた。

緩やかに上向いた口角と、細められた眼。

柔らかな微笑は、愛しいものを前にしたときのようだ。

そう思った千影は、まったく正しい。

穂積は千影の瞳を再び覗き込むと、ゆっくりと想いを音にした。

「お前が好きだ――千影」

言葉だけではなかった。

触れる掌が、注ぐ眼差しが、醸し出す空気が。

恋情を告げていた。

迷うことなく、強く。

千影はすべての動きを停止させた。

とうの昔に止まっていた思考回路は元より、流れ続けていた涙すら一時的に止まった。

千影は追い詰められていた。

何がなんだかちっとも分からなかった。

冷静になどなれるはずもなく、まともなことなど一つとして考えられない。

だってそうだろう。

穂積が千影を見つけて、穂積が千影を呼んで、穂積が千影を好きだと言ったのだ。

現実として受け入れるには、幸せ過ぎてたまらない。

夢だとしたら、きっと自分は壊れてしまう。

だから千影は、力いっぱい穂積に抱きついた。

彼に抱く恋心を涙に変えたように、その胸を濡らしながら、強く強く。

想いのままに、抱きついたのだ。





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