◇
「教えてくれ、俺はお前を何と呼べばいい」
腕の拘束が解かれ、代わりに両手で頬を包み込まれる。
灼熱の指先に誘われ、千影は降り注ぐ視線を間近で受け止めた。
絶望とは似ても似つかぬ鮮やかな色彩は、果たして「誰を」見ているだろう。
黒曜石に在るのは、「誰」か。
ただ一つの解を認めたとき、激しい飢餓感が全身を貫いた。
唇が、動き出す。
「――かげ、千影」
「っ……!」
「俺の名前は、千影だ」
いつからなんて、覚えていない。
ただ、ずっと前から願っていた。
祈っていた。
叶わぬ夢と知りつつも、捨てきれなかった。
穂積に正体を暴いて欲しい。
自発的に明かすのではない。
偶発的に露見するのではない。
彼の意思で求め、探し、暴いてくれる日を夢見ていたのだ。
騙していたと知ったら、穂積はどう思うだろう。
怒るだろうか、軽蔑するだろうか、傷つくだろうか。
不安になっていられたのは、最初のうちだけ。
時を経るにつれ我儘な欲望は肥大して行き、恋心を自覚するや恐怖などどこかへ消えた。
見つけて欲しいと、ただそれだけを想って来た。
だから早く。
もうこれ以上は待てそうにないから、早く。
よんでくれ。
「千影」
涙が零れた。
穂積の唇の動きがはっきりと分かり、甘い音色が大気を揺らす。
耳殻を滑り、鼓膜を震わせ、脳に沁み込む。
心が、歓喜する。
「あ……」
それは己の名前。
これまで聞いたもっとも美しい発音で紡がれた、己の名前。
「千影、千影、千影」
まるで宝石のように、月光のように、太陽のように。
繰り返される己の名前は、穂積によって眩い光りを帯びて行く。
輝きに刺された千影の瞳からは絶え間なく雫が溢れ、頬を包む掌を濡らした。
見つめ合う男の顔が滲み、明瞭となり、また滲み、それがひどくもどかしい。
肩が震えて喉が引きつり、幼子のような嗚咽が漏れる。
羞恥を感じる余裕もなくて、与えられるままでいれば、穂積はそっと一方の手を千影の髪へと伸ばした。
潜り込んだ指先が探るように動き、綾瀬を真似た甘栗色の鬘が取り払われる。
露わになった千影の穏やかなブラウンの髪を、穂積は壊れ物でも扱うかのように優しく梳いた。
コンタクトで黒いままの虹彩を惜しむ様に、涙に濡れる目じりを摩り。
「千影」
「っ、や……」
「千影、千影」
名前を呼ぶ。
千影は死にそうな心地になった。
「千影」だけを求める穂積に血を流したのは、つい先ほどだと言うのに、今や別の理由で息が出来ない。
胸が引き絞られるような痛みは甘美で、胸の鼓動は喜びに啼いている。
急激な変化に返事すら出来ずにいると、穂積の顔に表情が生まれた。
緩やかに上向いた口角と、細められた眼。
柔らかな微笑は、愛しいものを前にしたときのようだ。
そう思った千影は、まったく正しい。
穂積は千影の瞳を再び覗き込むと、ゆっくりと想いを音にした。
「お前が好きだ――千影」
言葉だけではなかった。
触れる掌が、注ぐ眼差しが、醸し出す空気が。
恋情を告げていた。
迷うことなく、強く。
千影はすべての動きを停止させた。
とうの昔に止まっていた思考回路は元より、流れ続けていた涙すら一時的に止まった。
千影は追い詰められていた。
何がなんだかちっとも分からなかった。
冷静になどなれるはずもなく、まともなことなど一つとして考えられない。
だってそうだろう。
穂積が千影を見つけて、穂積が千影を呼んで、穂積が千影を好きだと言ったのだ。
現実として受け入れるには、幸せ過ぎてたまらない。
夢だとしたら、きっと自分は壊れてしまう。
だから千影は、力いっぱい穂積に抱きついた。
彼に抱く恋心を涙に変えたように、その胸を濡らしながら、強く強く。
想いのままに、抱きついたのだ。
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