◇
「俺は「そいつ」に話があると言ったんだ。他の誰でもない、「そいつ」と話をさせろ」
「……なるほどな」
千影は目を瞠った。
木崎は納得したような一言を落とすと、ため息を吐きながら腕を解いたのである。
堅固な守りは呆気ないほど簡単に崩れ、解放された千影は無防備になる。
なぜ、木崎が態度を改めたのか分からない。
穂積のセリフの何が彼を納得させたのか、見当もつかなかった。
保護者に頼る自分を情けないと思いながらも、つい責めるように見上げれば、彼は困ったように苦笑した。
無言のままに少年の頭を撫でて、そうして踵を返す。
寂しさが覗く表情を見せられては、引き留めることなど出来るはずもない。
煉瓦道へと戻って行く後ろ姿を見送るしかなかった。
林の中に取り残されたのは、着崩れた格好の千影ともう一人。
穂積の顔を見るのが怖くて、千影の視線は足元に固定された。
時間が止まったようだ。
痛いほどの静寂に、ドクンッドクンッと鼓動ばかりが耳につく。
脈を刻むたびに傷口から血が流れ、胸の中を満たして行く。
この場を支配する奇妙な緊張感に、息が詰まった。
穂積が一歩を踏み出す。
刹那、千影もまた動き出した。
我慢の限界とばかりに着物の裾を翻し、再び逃走を開始する。
「おい、待て……!」
背中にぶつかる制止の声を撥ね退け、ただ彼の手から逃れることだけを考え足を動かした。
いつの間に靴を失くしたのだろう。
足袋の足に舗装されていない地面は走り辛くて敵わない。
小石や枝を踏めば、刺すような痛みが体を突き抜けた。
それでも少年は逃げるのを止めなかった。
身体的な痛みなどどうでもいい。
これ以上、あの男の瞳に晒される方が耐えられない。
「千影」を求める穂積に捕まるなど、耐えられるはずがないのだ。
動揺で乱れた呼気が喉を塞ぐのは、次の瞬間。
穂積の手が、千影の肩を強く引く。
「待てっ!」
「っ、離せ! 離せよ!!」
拘束を振り解こうと抵抗するも、腕力では勝負にもならない。
強引に身を返され、振り回した両手を掴まれる。
触れ合った箇所が火傷しそうなほど熱を持ち、平静の欠片すら失った思考回路が炎上した。
「離せって、俺のことなんて捕まえてどうするんだよ!」
「落ち着け! 何を言っている」
「いらないだろ、俺なんて必要ないだろっ」
「どういう意味だ」
言うな、言ってはいけない。
もしもこのとき理性が生きていたら、どれほど辛くとも口にはしなかった。
心の底に、押し込めたままでいた。
けれど今、千影にあるのは本能だけだ。
外気に触れてはならない本音が、林の中にぶちまけられる。
「会長が探しているのは別のヤツだろ! 俺じゃなくて「千影」のところに行けばいい!」
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