「俺は「そいつ」に話があると言ったんだ。他の誰でもない、「そいつ」と話をさせろ」
「……なるほどな」

千影は目を瞠った。

木崎は納得したような一言を落とすと、ため息を吐きながら腕を解いたのである。

堅固な守りは呆気ないほど簡単に崩れ、解放された千影は無防備になる。

なぜ、木崎が態度を改めたのか分からない。

穂積のセリフの何が彼を納得させたのか、見当もつかなかった。

保護者に頼る自分を情けないと思いながらも、つい責めるように見上げれば、彼は困ったように苦笑した。

無言のままに少年の頭を撫でて、そうして踵を返す。

寂しさが覗く表情を見せられては、引き留めることなど出来るはずもない。

煉瓦道へと戻って行く後ろ姿を見送るしかなかった。

林の中に取り残されたのは、着崩れた格好の千影ともう一人。

穂積の顔を見るのが怖くて、千影の視線は足元に固定された。

時間が止まったようだ。

痛いほどの静寂に、ドクンッドクンッと鼓動ばかりが耳につく。

脈を刻むたびに傷口から血が流れ、胸の中を満たして行く。

この場を支配する奇妙な緊張感に、息が詰まった。

穂積が一歩を踏み出す。

刹那、千影もまた動き出した。

我慢の限界とばかりに着物の裾を翻し、再び逃走を開始する。

「おい、待て……!」

背中にぶつかる制止の声を撥ね退け、ただ彼の手から逃れることだけを考え足を動かした。

いつの間に靴を失くしたのだろう。

足袋の足に舗装されていない地面は走り辛くて敵わない。

小石や枝を踏めば、刺すような痛みが体を突き抜けた。

それでも少年は逃げるのを止めなかった。

身体的な痛みなどどうでもいい。

これ以上、あの男の瞳に晒される方が耐えられない。

「千影」を求める穂積に捕まるなど、耐えられるはずがないのだ。

動揺で乱れた呼気が喉を塞ぐのは、次の瞬間。

穂積の手が、千影の肩を強く引く。

「待てっ!」
「っ、離せ! 離せよ!!」

拘束を振り解こうと抵抗するも、腕力では勝負にもならない。

強引に身を返され、振り回した両手を掴まれる。

触れ合った箇所が火傷しそうなほど熱を持ち、平静の欠片すら失った思考回路が炎上した。

「離せって、俺のことなんて捕まえてどうするんだよ!」
「落ち着け! 何を言っている」
「いらないだろ、俺なんて必要ないだろっ」
「どういう意味だ」

言うな、言ってはいけない。

もしもこのとき理性が生きていたら、どれほど辛くとも口にはしなかった。

心の底に、押し込めたままでいた。

けれど今、千影にあるのは本能だけだ。

外気に触れてはならない本音が、林の中にぶちまけられる。

「会長が探しているのは別のヤツだろ! 俺じゃなくて「千影」のところに行けばいい!」




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