◇
SIDE:穂積
自分の口から放たれた名前に、愕然とした。
この喉が奏でた音は、この唇が紡いだ音は、この心が生んだ音は、なんであったか。
誰の、名前だったのか。
ライトに照らされた甘栗色の髪が、まるで太陽を弾いたあの少年の髪のように金色に輝いた。
その瞬間、穂積を取り巻く世界は一変した。
後夜祭の夜、去り際の彼が見せた痛々しい表情。
諦めたような色の瞳と、失望したような笑みを象る唇。
千影の悲しい微笑が視界を塞いだ。
一度目も、二度目も、少年は決まって闇に融けた。
初めから存在などしなかったように、影の世界と混じり合った。
残された鮮やかな記憶は、いつも最後の笑みで切ない香りを纏う。
もう二度と、あんな顔をさせてはならない。
悲しい微笑を浮かべさせてはならない。
穂積が真実へ手を伸ばさなかったが為に、千影は夜へと消えたのだ。
三度目を迎えるくらいなら。
あの微笑みをさせてしまうくらいなら。
真実を、暴いてしまえ。
穂積が叫んだ名前は、千影。
過去と現在が入り乱れ、完全に正気を失っていた穂積は、しかし即座に我に返った。
見開かれた眼は、まるで探し求めた宝箱を凝視するかのように、少年のいた場所を見つめている。
無言のままに立ち尽くす男へ、周囲の視線が突き刺さった。
共に舞台に立つ役員の困惑と、客席に広がる細波のような動揺が押し寄せる。
聞き慣れぬ名前を叫んだ穂積と、弾かれたように逃げ出した光に、何が起こったのか把握できていないのだろう。
だが、穂積に説明をしてやるつもりは露ほどもなかった。
現実を取り込むように数度瞬きを繰り返し、視線の先にいたはずの人物が、どこにもいないとようやく気付く。
手にする檜扇を投げ捨て走り出すのは、次のときである。
「会長!?」
仁志の呼びかけなど歯牙にもかけず、光が消えた方へと足を動かす。
転々と落ちている打掛や衵扇を辿り、非常口から外へと飛び出した。
日中にも関わらず暗いのは、太陽を覆い隠す黒雲のせいだ。
ぐるぐると低い唸り声が響き、今にも降り出しそうな空模様である。
中庭を抜けたところで立ち止まり、どちらへ行ったかと首を回した。
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