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「光」として接し、「千影」として接し、千影としてあの男の前に立ったことは一度もなかった。
正体露見を何よりも恐れ、欺き続けたのだ。
今なお騙している千影に、傷つく権利がどうしてあるだろう。
自業自得と分かっていても、砕けた心臓からは血が溢れて止まらない。
激しい痛みに息をするのもままならない。
恋なんてしなければよかった。
決して手に入らぬものに焦がれたところで、苦しいだけだ、辛いだけだ。
身勝手な自分自身を、嫌悪するだけだ。
「千影っ!」
本来の名を呼ばれ、千影は反射的に立ち止まった。
どっと肺に負担がかかり、息が上がる。
肩を上下させながら声の主を確認すれば、予想通りの人物が駆け寄って来た。
「武、文……」
呟くと同時に、長い腕に勢いよく抱き締められた。
力強い締め付けに、千影の顔は保険医の白衣に埋まってしまう。
伝わる心音の速度から彼の動揺を察し、迷惑をかけてしまった自分へさらなる嫌悪感が募った。
僅かに残った理性が保護者に心配させてはいけないと囁く。
千影は常と変らぬ調子で、軽い言葉を口にした。
「舞台、見てたんだ」
「あぁ」
「そっか。大変だっただろ、俺が抜け出して」
「すぐに後を追ったから知らない」
「怪しまれるぞ、武先生。なんて、それは俺も同じ――」
「千影!」
強く名を呼ばれ、残りは終ぞ音になることはなかった。
抱き込む腕の力が増し、胸が詰まる。
外敵から守るような締め付けに、目の奥が痛んだ。
「もういいっ、もういいんだ!」
「武文……」
「俺が馬鹿だった、俺が悪い」
自責のセリフに、千影は困惑せずにはいられなかった。
なぜ、そんなことを言うのだろう。
責められるべきは職務を放棄した千影だ。
調査員と生徒、どちらの仕事からも逃げてしまったのだから、木崎に叱責されて当然のはず。
けれど彼は、千影を一切糾弾することなく、ただ優しく頭を撫でるだけ。
何度も何度も、慰めるように撫で続けるだけだ。
鬘越しでも感じるぬくもりは、いつも側にあったもの。
己を庇護する唯一絶対の手は、如何なるときも千影に平穏を与えてくれる。
強張っていた身体から力が抜けて、千影は知らず瞼を下ろした。
暴走していた感情は次第に落ち着きを取り戻し、呼吸が深く長くなる。
息をするたび鼻腔を通るのは、慣れ親しんだ保護者の匂い。
注がれる優しさを享受するように、千影は白衣の背中に腕を回そうとした。
「そいつから離れろ」
静寂を破る険呑な一言に、すべての動きが停止する。
木崎の胸に抱かれていても、それが誰の声かは本能で分かる。
砕けた心が、悲鳴を上げた。
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