叫ばれた名前。
音響トラブルに動揺したのは一瞬。
光は覚悟を決めると、自らの口でセリフを紡いだ。
かぐや姫の出番はあと少し。
生徒たちが声の差異に気付く前に、片を付けるつもりで劇を進めた。
扇の端から役員たちの様子を窺えば、皆あからさまではないものの安堵しているのが見える。
判断ミスではなかったと、光もまた胸を撫で下ろした。
いくつかの台詞を続ければ、涼しげな音楽が流れだす。
月の使者が訪れたのだ。
まるであやかしの術にかけられたように、他の誰もが制止する中、光は静かに立ち上がる。
月明かりの下まで進み出て、衵扇で顔を隠したまま、天を仰ぐ。
舞台奥からドライアイスの白い煙と共に、淡い色の衣を纏った歌音と俥が登場した。
ビスクドールのように愛らしい面に、穏やかな微笑を湛えた姿は、まるで本物の天人のようだ。
「かぐや姫、お迎えに上がりました」
光に合わせて他のマイクも切ったのだろう。
彼は客席に届くように声を張って、煌めく羽衣を差し出した。
袖を通せば地上の記憶を忘れてしまう、美しくも怖ろしい月の着物。
すべては泡沫のように弾けて消える、一夜の夢だと告げられる。
光は扇の内側で、小さく自嘲した。
演劇に過ぎないというのに、こんなにも身につまされるのはなぜだろう。
答えは分かり切っている。
かぐや姫の結末は、やがて光が迎える未来なのだ。
月の姫から徒人の娘となったかぐや姫。
影の世界から光りの世界に出て来た自分。
どれほど幸せな時間を送っても、どれほど離れ難いと思っても、本来あるべき場所に還る日は必ずやって来る。
かぐや姫が徒人の娘から天女に戻るように、「長谷川 光」が千影に戻ることは、揺るぎない絶対事項なのだ。
ただ一つ姫と異なる点は、千影は決して碌鳴学院での日々を忘れないこと。
これまでの潜入調査と同様に、終えたものとして消化することは出来ないだろう。
すべてを忘失させる羽衣を、千影は失くしてしまったのだ。
光は脚本通りに翁へ手紙を渡すと、一つ深呼吸をしてから帝に向き直った。
「今このときになって、貴方様のことを強く想います。この通り、複雑な身の上でございます。お側にいられないこと、お許しください」
扇に遮られ、穂積がどんな表情をしているかは分からない。
見たいとも思わない。
例え演技だとしても、そこにあの夜のような動揺を見つけてしまったら、とてもこの場を去れる気がしなかった。
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