◇
「近づいたと、思うか」
「はい?」
「お前は俺の手を取って、ここに来た。世界を跨いで、ここに来た。俺とお前の距離は……近づいたと思うか」
光がこの場に立っているのは、穂積の誘いを受けたからに他ならない。
世界の隔たりを失くして見せると、同じ世界に引き込んでやると。
そう言い放った穂積の言葉を承諾したからこそ、光は今、穂積と同じフロアに存在している。
ならば、光と穂積の間の境界線は、取り払われたと思っていいのだろうか。
或いは、境界線を越え始めたと思ってもいいのだろうか。
穂積の意図するところを察した光は、僅かに逡巡したようだった。
だが、俯けた顔を持ち上げるや迷いのない声で言った。
「俺は今、会長の世界へ足を踏み入れようとしています」
ぞわりっと。
背筋を何かが駆け昇った。
昏くて、重くて、熱いものだった。
「だから、俺と会長の距離は近づいています。俺は、そう信じています」
だったら、なぜ。
気付いたときには、光の眼鏡のブリッジに人差し指をかけていた。
ドア枠を掴んで抑えていた手が、とうとう欲求に負けたのだ。
光は咄嗟のことに反応できず、硬直していた。
このまま指を引き寄せれば、光の素顔は露わになる。
光の秘密を暴けるのだ。
そう確信するや、穂積はぐっと奥歯を噛み締めた。
まるで接着した部分を引き剥がすかのように、眼鏡から手を退ける。
直前で殺された衝動は、そのまま扉へと打ち付けられた。
ガンッと派手な音が、静かな世界に響き渡る。
きつく握り締めた拳の内側で、切り揃えたはずの爪が肉に食い込むのが分かった。
「悪いっ……」
「会、長」
驚愕に彩られた声が、己を呼ぶ。
情けなかった。
これは嫉妬だ。
くだらない、醜い嫉妬なのだ。
光と仁志が親しい友人関係であるのは理解している。
光が仁志を見る目に切ない想いは欠片もないし、仁志には綾瀬という最愛の想い人がいる。
光は穂積のものではないし、ましてや穂積は自分の気持ちすら告げていない。
だから、嫉妬をする権利などないというのに。
自分の許されていない光の秘密を、自分以外の誰かが知っている事実は、狂おしいほどの激情を生んだ。
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