希望。
パンドラの箱。
それはこの世のありとあらゆる災厄を閉じ込めた、開けてはならぬ禁断の箱。
鍵を外せば封じられた災いが溢れ出し、世界を混沌へと突き落とす。
光が心の奥深くに仕舞い込み、忘却の彼方に捨て去ろうとしていた記憶は、まさに混沌をもたらすほど衝撃的なものであった。
頤を掬った長い指先。
導かれた先で出逢った熱。
状況を理解できぬ内に奪われた視界と、乱された鼓動。
穂積に口づけられたのは、夏の日のことだった。
「…………!!」
光は声にならない悲鳴を上げると、玄関扉を背に蹲った。
部屋を追い出された仁志が扉の向こうで騒いでいるが、それに取り合う余裕などあるわけがない。
次々と溢れ出してくる「災厄」で、光は混沌の只中にいるのだ。
心臓が尋常でないスピードで脈を打ち、全身が燃えるように熱い。
上手く酸素が取り込めず、喉がからからに干乾びる。
頭を抱えてぎゅっと目を瞑った光は、暗闇に浮かんだ男の姿にすぐさま瞼を開いた。
だが、目を開けようが閉じようが、思考を占拠するものは変わらない。
恋した男が、光の頭を埋め尽くす。
「最悪だ……」
忘れようと努め、忘れたと思っていた出来事。
たった一言で蘇るなど、冗談ではない。
恋心を自覚する前ですら、現実逃避に走るほどのパニックに陥ったのだ。
自分の気持ちに気付き受け入れた今、混乱の度合いは比較対象にもならなかった。
なぜ、穂積はキスをしたのだろう。
何を想い、何のために、唇を重ねたのだろう。
考えれば考えるほど記憶は鮮明になり、光の内側を侵食していく。
疑問は深まる一方で、答えのない問いに囚われる。
ふと思い出されたのは、穂積の視線を受けた際に現れる、自身の心身異常について。
漆黒の眼差しに晒される度に、逃げ出したいような、見つめ続けたいような不可思議な気持ちになった。
それだけではない。
今のように動悸がして、今のように体温が急上昇し、今のように喉が干上がった。
心と身体に訪れる異様な変化は、ずっと前から繰り返されてきたこと。
「もしかして俺、かなり前から……」
先に続く言葉を口にすることは出来なかった。
消化したとはいっても、光の恋愛耐性はまだまだ低い。
舌に乗せては火傷をするに違いない。
無自覚に恋をしていたのだと理解して、光はため息と呼ぶには少々熱のこもった吐息を吐き出した。
解けぬ疑問の答えは、パンドラの箱に残されたそれと気づかぬままに。
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