受け取った鍵、取り損ねた箱。
SIDE:穂積
手にした書類を眺める男の表情は、どこかぼんやりとしたものだった。
心ここに非ずといった様子に、普段ならば幼馴染の声がかかるところだが、碌鳴館の執務室に他の人影はなかった。
窓の外が群青に染まり、街灯に明りが灯ったのは随分と前のことで、時計の針はすでに十時を回っている。
こんな時間まで仕事をしているのは、職務に熱心な生徒会役員の中でも、仕事中毒を疑われる穂積くらいのものだ。
しかし、夕食も取らずに一人居残っている男の手は、先ほどから少しも動いていない。
数枚の書類に据えられた目は文字を追いもせず、ただ意味もなく見つめているばかり。
彼の思考を捉えるのは、数日前の夜の出来事だった。
夜に解けて消えた、一人の少年。
千影。
突然、姿を消した彼がずっと気がかりだった。
インサニティという薬物事件を追いかけている以上、危険とは無縁でいられない。
無茶をしていないか、大変な目に遭ってはいないか。
生徒会の激務に追われながらも、頭の片隅には常に千影のことがあった。
たかだか数週間、共に調査をしただけの存在だとしても、穂積は心配せずにはいられなかったのだ。
ファントムに扮した少年は、最後に見たときと同じく端麗な容姿で大きな異変も認められなかった。
だから、それ以上を問わずにいた。
これまで何をしていたのか、どうやって学院に入ったのか、銀髪の男に何を言われたのか。
感情のままに抱いた疑問すべてをぶつけては、千影を困らせていただろう。
夏季休暇中、千影は必要最低限の情報以外を明かそうとしなかった。
名前と携帯電話の番号とアドレス。
彼自身から与えられたのはそれだけで、穂積の干渉や追及を望んでいないのは明白だった。
踏み込めば千影の重荷になる。
それならば、再会できただけで満足しておくべきだと思ったのだ。
けれど今、穂積は自身の選択が誤りであったのではないかと考えている。
すべては千影の表情のために。
瞠られた薄茶の虹彩、凍りついた頬、沈黙のままに薄く開かれた唇。
愕然としたような千影の様子に、戸惑いを覚えた。
なぜそんな顔をするのかが分からなくて、安心させるために柔らかな態度を意識したものの、次いで相手が浮かべたのは寂しげな微笑だった。
何も知らない穂積を諦めるような。
何も訊かない穂積を責めるような。
予想の範疇外の反応を前に、当惑せずにはいられなかった。
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