◇
近頃の自分は、我儘ばかりだ。
贅沢ばかりを口にして、木崎を困らせている。
心苦しくは思うのに黙っていられないのは、真の想いがゆえ。
次々と溢れ出し始めた本当の気持ちに、保護者は何を返すのだろうか。
思ったときだった。
「本気か……」
「え?」
「本気で言っているのか」
小さな呟き声に違和感を覚え、顔を上げた千影は、青褪めた木崎の面に息を呑んだ。
愕然と見開かれた双眼に光りはなく、深い絶望の闇が広がっている。
憤怒、悲痛、落胆。
予想していたどれとも異なる強く深い感情が窺え、彼の受けた衝撃のほどを如実に物語る。
過去に遭遇したことのない木崎の様子に、心臓が不穏なざわめきを立てた。
一気に膨れ上がる罪悪感と己への嫌悪感。
心のどこかで、木崎は優しく微笑んでくれるかもしれないと期待していた、身勝手な自分自身に、羞恥よりも吐き気が湧いて来る。
「ご、めん。ごめん、武文……でも俺――」
「違うっ」
「っ!」
悲鳴にも近い乱雑な一言が、千影の声を遮った。
木崎は椅子から立ち上がると、少年の細い両肩を抱えるように掴んだ。
身を屈めるや、真意を問いただすかの如く瞳を覗き込む。
「違う、そうじゃないだろう、千影っ」
「なに……」
「お前はまだ、調査員でいようとするのか!? 気付いても、まだっ……!」
必死な叫びは血を吐くような痛みを湛え、千影の胸を突き刺した。
意味が分からない。
木崎が何を言いたいのか、何を求めているのか、まるで分らない。
どうして彼は怒って、悲しんで、苦しんでいるのだろう。
自分の何が、彼を傷つけたのだろうか。
肩を掴む手は強く、指が骨を軋ませる。
痛い。
縋るものではなく、糾弾の手であると悟って、呼吸がつかえた。
千影の喉は完璧に閉じ、返せる言葉は一つとしてなかった。
ただ呆然と、衝動に支配された対面の眼を見つめ返すばかりだ。
木崎の感じた、己の与えた痛みの正体を、見つけようとして。
「っ、悪い」
唐突に我に返った木崎は、パッと肩にかけた手を放した。
一歩だけ後ずさり、ぎこちない苦笑をこしらえる。
「思いもしなかったことを言われたから、少し驚いた。痛かっただろう、ごめんな」
「あの、武文」
「ん?」
いつもの優しい調子で促されるものの、口にすべき言葉は持っていない。
何も言えずに黙り込めば、木崎の右手が頬を包んだ。
普段ならば安心できるぬくもりが、今日は遠く感じる。
「さっきの話、いいぞ」
「いいの……?」
「あぁ。お前には休みらしい休みを与えたことなんてなかっただろう? インサニティの調査が終わったら、長期休暇にしよう」
見上げた先には、千影の不安を払拭させるような微笑。
千影の願いを聞き入れてくれた、理解ある優しい保護者の貌。
素直に喜ぶべきところだ。
どれほど感謝をしても足りぬくらいだ。
けれど少年の唇が奏でたお礼の言葉は、純粋な歓喜とは程遠いものだった。
「ありがとう、武文……」
抑揚の薄い、頼りない声が保健室に落ちる。
千影はぬるい体温から離れ、踵を返した。
振り返らぬまま挨拶を投げ、扉から廊下へと出る。
閑散とした廊下を進む千影の内側では、確かな疑念と困惑が渦巻いていた。
己の何が木崎を傷をつけたのか、木崎は己の何に傷つけられたのか。
何を求め、何を願っているのか。
誰よりも大切で、誰よりも近しい人の心の中は、まるで見えない。
見せてもらえない。
もしこのとき、保健室に残った男の囁きが、千影の耳に届いていたとしたら。
何かが変わったのだろうか。
「この手は使いたくなかったんだけどな……」
罪人の懺悔の欠片が、届いていたとしたら。
- 670 -
[*←] | [→#]
[back][bkm]