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仕事の話を終えても、千影は席を立たなかった。
碌鳴祭の振り替え休日で校内は閑散としているが、保健室を訪ねてくる者がいないとは限らない。
調査員同士の接触を目撃される可能性があるのだから、常のように退室をするべきだ。
丸椅子に座ったまま動かずにいる千影に、木崎は首を傾げた。
「どうした? 何か他に気がかりなことでもあるのか」
窺うように問われ、握りしめた拳に落としていた視線を持ち上げる。
繊細なフルリムの眼鏡をかけた男の双眸に浮かぶ感情は、「心配」の二文字。
これから自分が告げる言葉によって、その思いは何に変化するのだろうか。
千影は胸を締め付ける不安と恐怖に耐えながら、思い切って口を開いた。
「俺、生徒会に入ろうと思うんだ」
木崎の息を呑む微かな音が、鼓膜に触れた。
「心配」から「驚愕」へと色を変えた瞳が突き刺さる。
その反応は、彼が千影の発言の意図するところを、正確に理解していることを示していた。
体温が下がっていく。
全身の筋肉が強張り、唇の動きもぎこちなくなる。
けれど、胸に秘めたままでいるつもりは、なかった。
「碌鳴学院に入ったのは調査のためだって、理解している。俺には調査員としての役割があって、それを果たすべきなのも分かってる」
最初はただの潜入先に過ぎなかった。
自分の存在の異質さを突きつけられる、苦痛な潜入先。
インサニティの売人を見つけ出し、一刻も早く学院を後にするつもりだった。
しかし今、少年の紡ぐ音は対極のもの。
「インサニティの件はしっかりと片を付ける。でも、その後の一年半……俺を碌鳴の生徒でいさせて欲しい」
千影はぐっと目に力を込めると、木崎の見張られたそれをしっかりと見据えて言い切った。
碌鳴学院生徒会。
学院内のほぼすべての行事を取り仕切り、教師よりも強い権限と膨大な量の責務を背負う重職。
穂積や綾瀬、歌音に仁志。
必死に職務を果たそうとする彼らの姿を見れば、調査の片手間にこなせるような、こなしていいような役目でないことは理解できる。
引き受けてしまえば、千影の思考は生徒会の仕事に占拠され、インサニティ調査に集中できなくなるのは明白だ。
調査が出来なくなった千影は、もはや千影ではない。
調査員であることを失えば、千影は千影を保てない。
存在の根幹が崩壊するのが怖くて、穂積の要請に応じずにいた。
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