◇
加速する鼓動で胸を満たしながら、千影はじっと次の句を待った。
「訊きたいことは山ほどあるが」
「……」
「追及しないでやる。会えただけで、いい」
柔らかに微笑んだ穂積に、愕然とした。
穂積は見逃してくれたのだ。
調査員としての千影を慮って、許してくれた。
ずっと触れられたくないと逃げて来た。
千影としても、光としても、「調査員」であると知られてしまえば「調査員」でなくなると信じていたから。
「調査員」でなくなれば、自分はこの世に存在できなくなると思っていたから。
けれどもう、千影は気付いている。
穂積によって、気付かされてしまっている。
彼の記憶にいる「千影」とは、決定的に異なってしまったのだ。
あの夏の日の「千影」は、穂積の知る「千影」は、もうどこにもいない。
今の千影は穂積の手が伸ばされなかったことに、心からの安堵を感じられずにいた。
代わりに強襲したのは、切ない痛み。
穂積は手を伸ばしてくれなかった。
そう受け取ってしまった自分自身の身勝手さに、愕然としたのである。
千影の胸中など知らぬ男は、柔らかな眼差しのままだ。
「お前は消えてしまったんじゃないかと思っていた、この世界から」
「……消えていたよ、ついさっきまでは」
「相変わらず、お前の言うことは意味が分からない」
懐かしさを滲ませて苦笑する穂積に、光は寂しい笑顔を返した。
消えていた。
先刻までこの世界に存在していたのは、「長谷川 光」であり「千影」ではない。
「千影」は確かに消えていたのだ。
意味が分からないという答えは、穂積がまだ、千影に気付いていないという証明に他ならない。
調査員としては願ってもない展開にも関わらず、不満を覚える我儘な自分に嫌気が差した。
居た堪れない思いから顔を俯かせた少年は、対面の男の怪訝そうな表情を見逃した。
捻くれた願望を抱く自分が恥ずかしくて、情けなくて、唇を小さく噛み締めるばかりだ。
千影の硬化した態度に気付いた穂積も口を噤んでしまい、狭いバルコニーに沈黙が落ちる。
会場内の賑やかなざわめきが、白々しいほど大きく聞こえた。
本当に、自分は何をやっているのだろう。
正体発覚を恐れて拒絶をして来たくせに、今になって穂積が真実に辿りつくことを求めている。
自分は調査員だけではないと理解したくせに、その立場を捨てもせずただひたすらに待っている。
矛盾した願いと、臆病な心が、千影の「秘密」を秘密のままにしているのだ。
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