加速する鼓動で胸を満たしながら、千影はじっと次の句を待った。

「訊きたいことは山ほどあるが」
「……」
「追及しないでやる。会えただけで、いい」

柔らかに微笑んだ穂積に、愕然とした。

穂積は見逃してくれたのだ。

調査員としての千影を慮って、許してくれた。

ずっと触れられたくないと逃げて来た。

千影としても、光としても、「調査員」であると知られてしまえば「調査員」でなくなると信じていたから。

「調査員」でなくなれば、自分はこの世に存在できなくなると思っていたから。

けれどもう、千影は気付いている。

穂積によって、気付かされてしまっている。

彼の記憶にいる「千影」とは、決定的に異なってしまったのだ。

あの夏の日の「千影」は、穂積の知る「千影」は、もうどこにもいない。

今の千影は穂積の手が伸ばされなかったことに、心からの安堵を感じられずにいた。

代わりに強襲したのは、切ない痛み。

穂積は手を伸ばしてくれなかった。

そう受け取ってしまった自分自身の身勝手さに、愕然としたのである。

千影の胸中など知らぬ男は、柔らかな眼差しのままだ。

「お前は消えてしまったんじゃないかと思っていた、この世界から」
「……消えていたよ、ついさっきまでは」
「相変わらず、お前の言うことは意味が分からない」

懐かしさを滲ませて苦笑する穂積に、光は寂しい笑顔を返した。

消えていた。

先刻までこの世界に存在していたのは、「長谷川 光」であり「千影」ではない。

「千影」は確かに消えていたのだ。

意味が分からないという答えは、穂積がまだ、千影に気付いていないという証明に他ならない。

調査員としては願ってもない展開にも関わらず、不満を覚える我儘な自分に嫌気が差した。

居た堪れない思いから顔を俯かせた少年は、対面の男の怪訝そうな表情を見逃した。

捻くれた願望を抱く自分が恥ずかしくて、情けなくて、唇を小さく噛み締めるばかりだ。

千影の硬化した態度に気付いた穂積も口を噤んでしまい、狭いバルコニーに沈黙が落ちる。

会場内の賑やかなざわめきが、白々しいほど大きく聞こえた。

本当に、自分は何をやっているのだろう。

正体発覚を恐れて拒絶をして来たくせに、今になって穂積が真実に辿りつくことを求めている。

自分は調査員だけではないと理解したくせに、その立場を捨てもせずただひたすらに待っている。

矛盾した願いと、臆病な心が、千影の「秘密」を秘密のままにしているのだ。




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