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保護者に報告して、ここから先は彼に任せるのも手だろう。
今、妙な素振りをして佐原に警戒されるよりは、慎重に行動をするべきだった。
長居は無用と結論付けた光は、予定通り神妙な顔を作って反省を滲ませる。
わざと肩に力を入れて畏縮していることをアピールすれば、幾分怒りを収めた佐原がソファに腰を下ろし、こちらにも着席するよう勧めて来た。
言われた通りおずおずと浅く座ると、上質の皮が少年の体重を優しく呑み込む。
思いもがけず座り心地の良いソファに身を沈めた光は、ふわりと立ち昇った香りに鼻先を撫でられ呼吸を詰まらせた。
こっくりと甘い芳香。
間違いない。
微かだが、確かにあの独特の臭気がしている。
把握するや心臓がドクリ、ドクリと強く音を立て始めた。
インサニティに関する情報が見つかればと思ってはいたが、まさかこれほど直接的な手掛かりに遭遇するとは考えてもいなかったのだから当然だ。
鼻腔から滑り込む蜜の香に、演技ではなく身体を強張らせた少年は、対面の男にゆっくりと目を向けた。
「何だ」
こちらの視線に気付いた佐原が、尊大な態度で足を組む。
もし彼が本当にインサニティと関係しているのなら、何て迂闊な男なのだろう。
調査員である己を、この部屋に入れたのが運の尽きだ。
佐原の整った面の中で、抑え込んだ怒りを燻ぶらせる双眸を、真っ向から射抜いた。
「先生は、霜月 哉琉という生徒をご存じですか?」
「……なんだ、いきなり」
唐突な質問に、相手の顔色がサッと変化する。
漂わせていた余裕はどこに行ったのか、一拍の間を置いて返された声は硬く、視線もこちらの真意を探るようだ。
男の警戒心に晒された少年は、動揺もせずに問いを重ねた。
「霜月 哉琉です。先生、どうですか?」
「知っているに決まっているだろう。先学期に退学処分になった生徒なんだから」
どうにか口を開いた佐原の説明は、筋が通っている風にも聞こえるが、少しばかり違和感を覚える言い回しだ。
サマーキャンプの事件まで、霜月は生徒会補佐委員会の副委員長、そして会長方筆頭として学院内で確固とした地位にいたはず。
数多の部下を率い、穂積のためと称して制裁を繰り返していたことは想像に難くない。
碌鳴の中では有名人と言っても構わないだろうに、なぜ佐原はあの小悪魔めいた容姿の生徒を、「退学処分になった生徒」としか言わなかったのだろうか。
彼の言い方では、処分を受けていなければ知らなかったとも受け取れる。
光より長く学院に身を置いているのだから、彼が霜月の噂を聞いてしないはずはないし、無視できるほどあの少年の存在感は薄くない。
「それだけですか?」
「どういう意味だ」
地を這う低音はある種の獰猛さを孕んでいた。
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