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面白そうに笑い声を滲ませた須藤は、冷たい慄きを与えた別人の表情を、教師のそれに作り変えた。
穏やかで優しげでそれでいて意地の悪い、いつもの微笑でこちらから目を外す。
どっと肺に流れ込む新鮮な酸素に、喉の奥がひりついた。
これもまた、三度目だ。
いつかの資料室、修学旅行先の露天風呂。
怜悧な切先を突き立てられて、暴かれる恐怖に怖じけた途端、須藤は瞬時に刃を納め緊迫した空気を緩めてしまう。
「っ……!」
あっさりと踵を返し、パイプ椅子へと座り直す相手に奥歯を噛みしめる。
不可視の鎖から解放された安堵に流されてしまいたい本音に混じって、苛立ちにも似た思いが腹の底で燻ぶっている。
今、光は誤魔化されたのだ。
纏う空気を豹変させれば、こちらが後退すると踏んで須藤は寸前の行動に出た。
危機回避本能に促された少年が、このまま資料室から逃げて行くとでも思ったのだろう。
過去を鑑みれば須藤の一手は非常に有効と言える。
だが、それは光の疑念を肯定したも同じ。
何事か聞かれたくないことが、手を伸ばされたくないことがあるからこそ、眼前の男は牽制をかけたに違いなかった。
馬鹿にするな。
いつまでも怯えるばかりだと思ったか。
委縮したら逃げなければならないのか。
己は調査員だ。
ドラッグ調査という、明確な任務を持ってこの場にいる。
相手が調査対象である以上、もう同じ轍を辿るわけにはいかない。
胃袋を焦がす不愉快な感情を、密やかな深呼吸でどうにか宥めると、少年は意識的に冷静を呼び寄せて。
「その二時間、先生は何をされているんですか」
はっきりと言い放った。
平然とした態度で課題の採点に戻った化学教師は、今にもプリントに触れようとしていた赤ペンを空中で停止させ、ゆっくりと顔だけをこちらに向けた。
浮かぶは、微かな驚愕。
予想外とでも言いたげに、軽く瞠られた眼を真っ直ぐに睨み据える。
光がさらに踏み込んで来るなど、露ほども考えていなかったと主張する表情を無視して、眼光を緩めることなく研ぎ澄ませた。
「噂、俺も聞いたことがあります。先生の資料室に入った生徒は、出て来ないって。佐原先生についてがダメなら、せめてそれくらいは教えてくれませんか」
「……逃げないんだね、今日は」
「逃げるようなことじゃ、ないんですよね?」
挑むように返すと、須藤は驚きで強張った顔に笑みを乗せた。
担任教師としてのものではなく、あの、香しい微笑みを。
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