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無数に並ぶ資料室の一つが、半分ほどだが扉を開けている。
ちょうど、廊下の半分を行った辺りの部屋だ。
賭けるしかあるまい。
未だこちらに気付かず歩みを止めない男の背中を、じっと観察してタイミングを計る。
そうして数拍の後、光は本校舎の角から滑り出ると、無音のままにぽっかり口を空けたその部屋へ身を潜らせた。
ドッ、ドッと緊張を示す心音と共に、冷や汗が噴き出る。
無事に成功した綱渡りに、ひっそりと息を吐き出した。
もしこの部屋に到達する前に、佐原がこちらを振り向いていれば、すべてが失敗していたのだから当然だ。
安堵に弛緩する意識を引き締め直し、光はそぅっと開いた扉の影から廊下を覗いた。
距離はあるが、決して見えないわけではない。
佐原の姿は、廊下の突き当たりにあった。
左手にある階段を下って行けば、各フロアを経て西棟の昇降口に辿り着くが、わざわざエレベーターで四階まで来たのだから、それはしないだろうと予想する。
読み通り佐原は立ち止った。
周囲を見回す素振りに、慌てて首を引っ込める。
光は十分な間を置くと、ブレザーのポケットから取り出した手鏡で、廊下の様子を映し出した。
男はこちらに背を向けた状態で、廊下の隅に片膝をつき何かをしている。
不自然な動作に集中しながら、脳内ではあそこには何があったかと記憶を掘り返す。
足を踏み入れる機会の少ない四階だ。
中々思い出せずに眉根を寄せたとき。
意識のすべてを廊下へと注いでいた少年は、強い力で背後へと腕を引かれて息を呑んだ。
調査員としての心得から、叫び声を出すことはなかったものの、後方から回された掌が口を塞ぐ。
腕力に物を言わせて部屋の中央まで引き摺りこまれ、少年の危機回避本能がカッと目を覚ました。
拘束された右腕を技術でもって振り払い、無理やり開いた口で沈黙を強いる手に歯を立てようとした。
「痛いのは止めて下さいね」
動きを止めたのは、耳元で囁かれた一言のせい。
え?と思う間もなく肩を掴まれ、体が百八十度方向転換させられた。
流行から外れた黒ぶち眼鏡の内側で、瞠目。
「シー」と人差し指を唇の前に置いたのは、担任教師の須藤 恵だった。
なぜ、彼がここに。
華奢な身を支配したのは、安心とは程遠い感情。
皮膚の下であらゆる筋肉が強張るのが分かる。
須藤は光の最重要警戒人物なのだ。
この部屋に侵入した光に、今の今まで声をかけなかった理由は。
口を塞ぎ無言を要求するのは何のため。
突然の出来事に波立った心を鎮めながらも、光は湧き出す謎に駆け足の鼓動を止められない。
かと言って、ただの教師の手をむきになって払うことも出来ず、至近距離で相手の整った顔を見上げるばかりだ。
こちらの不信感を察したのか、須藤はゆっくりと手を離し、それから部屋の奥を指差した。
示されたのは、資料室の壁に設置された扉である。
彼は驚きを隠せぬ少年に小さく笑いかけ、扉へと手招く。
知らず乾いていた喉を潤すように、コクリと唾を嚥下して、光は警戒そのままに須藤の後に着いて行った。
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