彼の矢は至る。
弓道場の観客席は、学院生たちでびっしりと埋められていた。
矢の疾走する矢道の脇は危険なため、射場の外に設けられた僅かばかりの席数を、彼らが必死に確保したであろうことは想像に難くない。
純粋な仲間の応援が理由ではなく、デモンストレーション目当てなのも、彼らの輝く瞳を前にすれば察するのは容易かった。
この競技における本当の主役は、出場選手たちではなく、彼なのだ。
光は嘆息を一つ落とすと、正面に立つ和服姿の男に焦点を合わせた。
均整の取れた肢体を包むのは、前とは異なり弓道衣ではない。
黒の五つ紋付きに縞袴。
しかも片袖を脱いで竹弓を手にしている。
引き締まった筋肉に覆われた長い腕、しっかりとした胸板、首筋から肩に続く艶めかしい輪郭。
感嘆の吐息が今にも聞こえてきそうな生徒たちに、いつもならばげんなりするところだが、今回ばかりは気持ちは分かる。
穂積 真昼の卓越した容姿は、華奢なばかりの己にとっても憧れを抱くものなのだ。
そんな彼の美しい射を、果たしてこんなに間近で観てもいいのだろうか。
穂積に伴われ弓道場に向かう道すがら、すれ違う生徒たちから浴びせられたチクチクとした視線は、彼に言われるまま弓道場に入った光が着席した瞬間に、グサグサに豹変した。
少年が身を置く場所、それ即ち審査員席である。
デモンストレーションのためか、当の審査員はおらず、はっきり言って居心地は最悪だ。
人の目が多くある場所で、学院の皇帝と並んで歩いただけでも失敗したと思ったのに、この特別待遇は頂けない。
まるで周囲に見せつけているようではないか。
数か月ぶりに目にする弓は楽しみだが、出来るならばさっさと射終ってほしい。
切実な考えを抱いたときだった。
微かなざわめきが消え失せ、弓道場全体が静謐な緊張に包まれた。
無理なく張り詰めた、背筋の伸びる凛とした空気。
数多の視線が向かう先は、射法八節の一つ、足踏みをした男に集中する。
軸の通った上体は微かにも揺らがず、弓に矢を番える。
静寂を保ったまま打ち起こし、腕の筋肉が浮いて弓と弦を離しつつ引き下ろされる。
遠くの霞的は、鏃の到達を待っていた。
極限まで研ぎ澄まされた五感が、表皮に触れる冷ややかな大気を受け取ったとき。
離れ。
解放された一つの意志は、虚空を切り裂き本懐を遂げる。
コンッと響く音が、波紋を描いた。
誰もがその矢の行方を目で追いかけているなか、光の視線はただ一人を見つめていた。
弦の衝撃にもまったくぶれることなく、泰然としたままの残心は静かな余韻だ。
凪いだ黒曜石の輝きは、悠久の彼方を見つめるが如く、深い色を湛えている。
やがてど真ん中に的中した矢に、観客が拍手を打ち鳴らした。
構築された世界が喝采によって迎える終焉。
ただ一人。
光は。
千影は。
「……」
音を立てられなかった。
称賛の手も、歓声の喉も、持ってはいなかった。
心の奥深い場所が、震えるばかり。
少年の根幹をなす核が、目にしたばかりの清廉で透明な光景に支配される。
無色の鮮やかさに呑み込まれる。
穂積の射は美しい。
容姿や技術、所作だけの問題ではなく、彼の紡ぎ出した濃密な数秒間が、千影の琴線を爪弾くのだ。
理屈でもなく、感情論でもなく、言語表現の枠には収まらない、もっとずっと感覚的で本能的な胸の高鳴りが、身内で脈を打っていた。
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